城東渭山同窓会

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創刊8号

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【平成12年城東渭山同窓会東京支部総会レポート】

来年は学校創設100周年
新校舎は2004年に完成予定

平成12年度支部総会幹事

城東14回 児島 田鶴子

 20世紀最後を飾る平成12年度城東渭山同窓会東京支部総会は、6月11日(日)、新宿より京王線にて一駅、初台(今や音楽愛好家のスポットの一つになっている)にある東京オペラシティタワー54階の中華レストラン東天紅において開かれました。あいにくの雨模様にもかかわらずに100名の方々が参加くださり、しばし故郷に思いを馳せる懐かしい一日でした。

 本年の幹事役は、城東14回生が担当しました。学校より、浅香校長、松島副校長、他3名の先生方が、また同窓会本部より仁田映子同窓会長ほか一名が、そして恩師として、14回生を担任された天野先生、広島先生がご列席くださり、幹事代表の仁田旦三氏の司会のもと、終始なごやかな雰囲気の中で進められました。

 まず、3年の任期を果たさせた三谷東京支部長より、行事会計報告、ならびに新しい支部長として中村昭博氏(城東17回)の紹介があり、承認されました。続いて、浅香校長から現在の城東生の活躍ぶり、とりわけ、昨年惜しくも甲子園出場を逃した硬式野球部のこと、バトミントン、バスケットボール、空手、陸上、放送部など全国大会に出場するほど活発な部活動が紹介されました。

 松島副校長からは、①新校舎建設計画が進められていること。本年より2001年にかけて遺跡調査、2002~4年に建設予定であること。②学校創設100周年を祝う会を新校舎建設と合わせて2002年、瀬戸内寂聴さんを会長にして開催予定であること。③少子化傾向の現われとして、一学年10クラスを切る状態になっていること、等が報告されました。また、仁田同窓会長からも、100周年記念会が、本部、近畿地方、東京支部、全てにおいて、城東17回生を中心として開催される旨が報告されました。

 恩師として列席くださった天野先生、広島先生は、共にお元気で古希を迎えられ、各々お能とジョギングをご趣味に悠々自適のリタイア生活を送っていらっしゃる近況が報告され、天野先生が席上「高砂」をご披露くださいました。中華料理に舌鼓をうちつつの歓談さなか、NHKのアナウンサーとしてご活躍中の蔭山武人氏がお得意のマイクをとられ、徳島新聞にコラムを連載予定であり、東京支部の同窓生にも徳島への熱き思いを寄せてくださるようとの協力依頼がありました。

 会も大詰め、参加者全員による校歌斉唱、および次回東京支部総会の幹事紹介がありました。15回生の出席がなかった為、平成13年度東京支部総会は16回生が幹事を引き受けて下さることになりました。「今日お集まりの皆さんが一人一名づつ友達を連れてきてくだされば21世紀幕開けの支部総会を200名の参加者で祝えます」との次回代表幹事、竹口省三氏の頼もしいご挨拶で、本年の東京支部総会は閉幕となりました。

 今回の支部総会の幹事回りだった14回生の在学当時は、徳女の名残で男女の比率は圧倒的に女性優位でしたが、今回の総会実現は、ひとえに代表幹事を勤められた仁田旦三氏と谷崎忠人氏、他男性陣のご尽力によるものでした。希少価値たる城東OBに実力とチームワークの素晴らしさを、感謝と共にご報告致します。

 また、今回報告されました新校舎建設計画には幹事担当の14回生は各々に感慨ひとしおの想いでした。我々が在学中に建設されつつあったコンクリートの新校舎(現校舎)もまもなく取り壊され、さらに新しい校舎が建設予定であるとの報告に、過ぎし歳月を否応無く痛感させられた次第です。「ずいぶん遠くへ来たのもだ!」と思います。が反面、私たちの本質は変わっていないのではないかとも思います。人格形成途中の多感な10代後半の3年間は、私達の血肉の一部として、これからも折りにふれ原点を思い出させてくれるでしょう。同窓会が、今度とも互いに励ましあい、勇気を与え合う場として発展されんことを願っています。

 最後に、今回の支部総会を前にして召天されて真鍋嘉代先生(英語科担当)に、主の慰めがありますよう、お祈りいたします。


【城東高校近況】

城東 新世紀への発進

副校長 松島 孝昌


 東京支部の皆様にはますますご清栄のことと存じます。

 二十一世紀を迎え、本県の教育界も改革に向けて大きく動き出しました。一昨年三月に、「教える教育から一人一人の学びを創造する教育へ」を基本理念に、県教育振興基本構想の中間まとめが発表されました。その具体的施策として、多様な科目の選択制、中高一貫教育や単位制の導入などがスタートしました。入学者選抜制度の見直しも検討中であります。

 このような中で各高等学校も、それぞれ特色ある学校づくりに取り組んでおります。今の若者が夢がないとか、目標を持たないといわれています。そこで本校では、生徒に地域社会との交流を通して、自らが将来の社会の中でどのように生き、どのように貢献していくかを考えさせ、その生徒の将来像(夢)の現実を支援するための活動を展開する「ドリカムセミナー」を計画し、昨年の十月から実施しております。このプランは、進路研究・進路設計のための体験的、実践プログラムを提供していくもので、生徒が主体となって活動するものです。生徒には好評で、新聞にも大きく取り上げられました。

 おりしも本校は、2002年に創立百年を迎え、同年から校舎改築が始まります。現在のグランド(西側)に、体育館を含む新校舎が建設され、2004年4月から新校舎を利用します。その年に現校舎(東側)を解体し、新グランドを整備する予定です。すでに設計が完了し、新聞に完成イメージ図とともに掲載されました。教室棟は四階建てで、通気性や採光の向上を図るために斜めに配置されます。本館棟は事務室・職員室・特別教室などが入る四階建てで、体育館棟は図書館・食堂・多目的ホール・柔道場・大小アリーナなどを備えた五階建てとなります。特に目玉となるのは多目的ホールで、400名収容の自動収納式座席(階段式)を備えたもので、座席を収納するとアリーナとしても利用できるものです。これは、同窓会館として皆様に利用していただきますが、学校行事や地域社会にも広く開放したいと考えております。

 このように、城東高校は今、輝かしい新世紀へ向かって新たな発進をしようとしています。東京支部の皆様、ぜひ一度ご帰郷していただきまして、母校の姿を見にお立ち寄りください。皆様方のご健勝をお祈りいたします。


【本部同窓会の近況】

城東は今も城東

同窓会会長代理 城東17回 鈴木 綾子


 「二学期の始業式のとき、校長先生が章くんのこと話丁てくれたよ」と、ピアノのレッスンに来られた愛らしい後輩がいう。「どうして校長先生がうちの息子のこと知ってくれとん?」と尋ねると、夏休み中に掲載なった徳新の記事「生きる勇気伝えたい・十月米国で遺作展」を紹介しながら話されたとのこと。なんて優しい校長先生なんだろうと感激しました。そしてお礼に、息子が闘病中に制作したCG
(コンピュ-タ・グラフィックス)作品のポストカードを届けてもらったのが、浅杏校長先生との出会いとなりました。

昨年四月二十八日「城東高校創立記念日に息子の体験を」と思いがけなくも講師にお招きいただいたのです。今の高校生にどんな話がフィットする
のか全く自信があり支せん。ピアノの生徒のふたりの女子高校生に「どんな人に魅力を感じるの?またどんな生き方

がいいと思う?」と聞くと「うーん。自分らしく・・一生懸命に生きる人・・かな」と返ってきたのです。最近ときに問題の多い年代だげどやっばり城東、前向きで真剣。それなら大丈夫かなとほっとして、ありのままに話きせていただくことにしました。

 三十四年ぷりの母校の体育館は、とても広くて立派でした。着席した千二百人もの生徒が、果たして私のようなおばさんの話を聞いてきれるかどうか心配でした。でも、みんな顔を上げているんです。男チも女子も―生懸命聞いてくれているんです。私にとってはあっという間の―時間でした。

 おもしろくない「生と死」がテーマでした。グラフィックデザイナーとして、二十五歳という青春真っただ中で急性白血病と診断され、東京の病院で一年五ヵ月間の闘病。しかしいつも希望を持って「僕にとって絵(CG)を描くことは生きること」と病魔に立ち向かい、自ら人生のクライマックスを個展というイベントで飾ってこの世を旅立ち、遺作が念願の海を渡ったこと。言葉は通じなくても感動が伝わり「芸術に国境はない」ことを実感したこと等々。

 「お礼のことば」と生徒会長の男子生徒が丁寧におじぎをして「とても感動しました。これからどんな壁にぶつかっても、今日の話を思い出すと乗り越えられるような気がします」といってくれました。

 私の方こそ感動でした。仁田同窓会長はじめ17回の同級生も来て下さいました。新世紀を担う後事たちと語り合い「城東は今も城東」と何ともいえないうれしさと感激に包まれた、創立九十八周年の記念日となりました。        以上


帰省

城東27回 小山 直稔


  城東渭山同総会長様、いかがお過ごしでしょうか。二十世紀から二十一世紀への「世紀越え」を新たな希望と決意をもって迎えられ、それぞれの目標に向かって輝かしい日々をお送りのことと推察申し上げます。

 私は、一九七六年(昭和五十一年)三月に城東高校を卒業して以来、郷士徳島を離れて久しくなりますが、今回、九年ぶりに年末年始を故郷で過ごしました。これまで、五月の連休や八月の盆休みには、二年に一度の割合で帰省し故郷の有り難さを感じておりますが、年末年始の徳月は、寒さと静けさに慌しいさが加わって、春・夏の時期にくらべ、一段と郷愁を感じさせられました。

 年明け早々の一月四日、城東高校卒業後も辛うじて音信を保っている同級生の一人と数年ぷりに再開することにし、実家のある阿波郡市場町から久しふりに徳島本線(ディーゼルカー)を利用して徳島市内に出掛けました。その一週間ほど前、妻子とともに空路帰省し、徳島駅を経由した折には余り気付ぎませんでしたが、一入改札口を出て駅周辺をゆっくり見渡すと、その変わり様に改めて驚き、二十五年という時の流れを感じました。

 高校生の頃、クラプ活動での駆け足コースとして、また駅前商店街への通り道として利用していた徳島城公園に足を運び、初めて「鷲の門」をくぐりました。一九七八年の夏以来、久しぶりに域山(渭山)にも登りました。高校一年生のときクラス担任をされた森本康滋先生が、城山の原生林について熱心に説明されていたことを思い出し、「分布の最も大きい『ホルトノ木』はどれだったかな」と目で探しながら山上の神社へと続く石段を登りました。季節が冬の真っ只中ということもあるでしょうが、高校生の頃に見上げた「城山の茂み」にくらべて、木々の勢いは衰え、原生林全体が乾燥しているような印象を持ちました。城山を下りたところで見かけた看板によると、気候対策の一環として「保水工事」を施行中とのことでした。

 同級生と合流する時問まで少し余裕があったので、新町商店街へも足を伸ばしてみました。徳島市内でも老舗とされ、東新町通りのシンボル的存在であった百貨店がなくなり、跡地が公園と地下駐車場関連施設となっていたのには驚きました。一巡りすると、紺屋町通りも含めて、記憶に残っている店舗は数えるほどかなく、ここでも時代の移り変わりを目の当たりにしました。詩人・石川啄木は、「ふるさとは遠くにありて思ふもの」と感慨を述べていまずが、私にとっても、城東高校の三年間で慣れ親しんだ徳月の街並みや風景は「思い出」になってしまったようです。

 徳島駅改札口で目当ての同級生と合流し、彼の案内で駅近くの居酒屋に入りました。当然のことながら、私の「思い出の地図」には、居酒屋・飲み歴についてのデータは一切なく、異郷での成人を迎えた自分と、長く郷土に暮らす同級生との違いにある種の寂しさを感じました。二人で「小上がり席」に座り、飲食をともにしながら、数年前の盆休みに城東高校正門前の喫茶店で会って以降の近況を披露し合い、遠ざかる思い出を手探りながら高校生時代の思い出や、他の同級生の消息について話しました。途中から、もう一人の同級生も加わり、その夜はごく小規模ながら「地元での同窓会」が賑やかに行なわれました。改めて見合す互いの容姿容貌に経年変化を忍めながら、その語り口にほ変わらぬ懐かしさを感じ合いました。「楽しい時間は短い」の譬えどおり、気が付けば日付も既に変わって暫く経つという頃合になっていました。二人の同執生は、片方の細君の車に迎えられて家路に就き、私は無駄になったJRの乗車券をポケットに入れて徳島駅前からタクシーに乗りました。

 城東渭山同窓会東京支部では、役員の皆様を始め、母校の先生方、会員の皆様方のご理解とご協力により、毎年、支部同窓会が開催されておりますが、地元徳島においては、合同同窓会は元より、各卒業年次ごとの同窓会も開催される機会が少ないと聞き及んでおります。故郷を遠く離れていることが、却って故榔や母校に対する思いを強くし、活発な同窓会活動に繋がっているのでしょうか。私は青森県から都内に転居し早四年目となりますが、東京支部の一員でいられることを感謝しつつ、支部活動の隆盛と会員の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げる次第です。
         (以上)


南房総でのセカンドライフ

城東11回 岡山 勝敏


私は21世紀の正月を南房総、御宿の太平洋を臨む高台の一画で迎えた。昨年六月、永年住み慣れた埼玉県を跡にして南国情緒豊かな御宿町ヘ移り住んだ。ここは大手デベロッパーが十年前、御宿町の後背にある丘陵を切り崩し五十万坪、千五百区画のリゾートを造成したものである。その広大な規模からみて当時は相当な自然破壊も行われたのではないかと思われたが、現在では周囲の自然との調和もとれ、街並みも整い落ち若きのある住宅街になっている。このリゾートは既に六百戸が入居済みで、内二五十戸が定住者で占めている。しかも定住者の大半は六十歳以上のリタイヤ組であることも注目に値する。

 さて、ここで私のセカンドライフを過ごす新天地を御宿に求めたいきさつと将来、リタイヤ後はリゾートで暮らしたいと考えている諸兄に多少の助言になれば幸いと経験談を述べてみたい。

 私は今年十月で満六十歳を迎えるが、聖人孔子のいう「五十にして天命を知り、六十にして耳従う」の心境にはほど遠く煩悩に明け暮れているのが実情である。第二の人生を過ごす器は手にしたが、器に入れるべき中身をについては今後の課題として時間の許す限り探し求めていきたいと考えている。

 故郷の徳島を離れて四二年、大学在学の四年を除き三六年間を勤務地の埼玉県で過ごした。平成十一年、三十四年間のサラリーマン生活に終止符を打ち退職した。在職時代に取得した技術

士の資格を生かして技術士事務所を自宅に開設した。現役時代培った自動車製造技術を開発途上国発展のため少しでも役立てばと思い政府海外援助のもとで技術指導の仕事をはじめた。これで定年後の働き甲斐は何とか見出したものの、生き甲斐は今一つ心の底で癪然としないものが残っていた。

 実はここ十年来、リタイヤした後のセカンドライフをどこで、どのように暮らすべきか人生設計について人並み模索し続てきた。五十三歳過ぎからは子供の頃、吉野川で船遊びをした思い出の郷愁も断ちがたく海辺の暮らしへの想いが募り年にニ、三度各地のリゾート地を訪れた。埼玉県在住時代、家族構成の変化に応じて既に二度、家の買い替えをしており今度は終の棲家になるであろうとの思いを込めて候補地選びに入った。選定は雑誌、新聞、ホームページを参考にしたが最後にほ自分の目で確かめることにした。西は浜名湖から伊豆、富士山周辺、そして東は房総半島まで家内、娘を同行し車で駆け廻った。その結果セカンドライワのイメージは徐々に固まっていった。海辺のリゾートでマリンスボーツに興じ、新鮮な魚介類を賞味し、菜園作りに汗を流している姿が次第に本物のように思えてきた。そして海釣りや船遊びのツールを確保するため五十五歳の手習いで四級海技士免許を取得した。一歩一歩の積み重ねが最後に大きな成果を生むという予感があった。あとは新天地をどこに求めるかが最後の課題となった。

 平成十二年は年初から今年こそ永年の夢を実現しようと心に誓い準備に人った。まず最初は家族の同意を得ることである。安内は事前のネゴが功を奏し即同意したが、次女は大宮市の会社勧めのため会社をとるか転居をとるかで難航をきわめたが最後は一家揃って行くことに同意した。候補地は前述のイメージに合致したものから生活利便性を考慮して選定しま家族の意見を人れほぼ南房総の御宿に決定した。ここは前述の通り、定住者も多いことから日常生活面でも問題なさそうとの判断がつき決定に拍車がかかった。桜が咲き始める頃、新聞広告、インターネットを駆使して物件探しに奔走した。その結果、某不動産会社のホームページに手頃な物什が見つかり早速交渉に入づた。現物を確認したところ平屋の3LDKで、築十年ながら外観、内装共に手入れが良くOKと判断した。価格交渉も無事終了し契約を完了した。一方、二十年住み慣れた埼玉の現住宅は幸運にも近所の知人に売却が決定し、わずかニヶ月で買い換えが纏まった。かくして十年来の夢は家族の協力のもと、平成十二年六月遂に実現したのである。

 以上が私のセカンドライフスタートまでの物語である。ひとつ言えることは十年間、願望を思い続けることができれぽ大抵のことは実現できる。道は険しくとも自ら選んだ通には悔いは残らないということである。


「きれい」と思うこと

城東17回 中村 昭博


 城東高校を卒業し、茫洋と35年が過ぎましたが、特筆することほありません。

 10前の一時期に、犬一匹、ウザギ15匹、鶏3羽、文長10羽、その他禄亀、ザリガニ、金魚、ハハムスター、おたまじゃくし多々と我が家は大家族を構成していましたが、現在は柴犬とウサギが一匹づつとなっています。漱石先生の猫ほど賢くありませんので辛辣な文明批評はできませんが、ピールも飲みませんので溺れ死せず、犬齢を重ねて今年11才になるこの柴犬は、太目の自分の健康管理用として飼っており、当然朝

の散歩は家族の中で私の役目となっています。我が家の位置する団地の周りには梨畑と少しですが田んぽもあり、遠望すると雑木林も眺められ、なんとか自然らしきものが身近に残っています。

 柴犬を飼い始めたある春の早朝、いつもの通り出勤前に散歩に連れて行き、排泄後満足そうな表情をうかべる柴犬を横目に見ながら、しゃがみこんでその後始末をしようとした瞬間に、畦通に咲く雑草が目に入りました。この時どのような心境であったかは今となっては思い出せませんが、その雑草を「きれいなあ」という素朴な感情で眺めたことは確かです。「え、まさか」と自分が自分自身に驚くとはこの事です。

 私は戦後間もない生まれですから、小さい時にはとんぼ、フナ、つくしに代表きれる郷愁を誘う自然と、台風が来れば自宅を浸水させる迷惑がられる自然が、当たり前のように併存し、生活が自然に馴染んだ中で育ちました。ですから自然に親しむという特別な感覚は、持ちようがありませんでした。むしろ中学、高校、大学と大きくなるにつれ、興味が多方面に移り、自然に背を向け、自然を遠のかせたというのが実感です。そしてそのまま年月は駆け足の如く過ぎ11年前に至りましたが、その間、時々ふと思い出したように何処か速くの自然を求め、移動した距離と費やした時間を引き換えにして、「ああ緑っていいなあ」と自己満足に浸った時のみ自然が目の前にありました。ところが、その雑草を目にしての「きれい」という新鮮な実感は、しぽらくしても消えることなく何か胸に迫ります。小さい時の座標軸への回帰ではありません。大袈裟に言えば生とし生きるものへのいとおしみです。

 しかしながら生活者としての私は、迷惑な自然を克服し便利な生活環境を作ることが経済成長であるとの論理の側に立ち、そして今も立ち続けています。結果として、公共事業とやらで、実家では台風が来ても浸水の心配はせずに済むようになり、その一方で商業主義の下、あんこ屋、釣道具屋、味噌屋ほ残っていますが、駄菓子屋も、豆腐屋も、醤油屋も個人商店は殆ど無くなり、塩田が埋め立てられ、故郷の鳴門がだんだん味気ない町並になっていくのを、ただ傍観するだけでした。

 日本人はなんでもかんでもすぐに一辺倒になる習性をもっていると、さる文化人が評していますが、的を得た指摘と思います。まあこれからは、見果てぬ夢を追い求める生活者の立場は放棄せぬまでも、必ず手の届く目の前の、つい忘れてしまいがちな自然の営みを、きれいなものとして丁寧に見つめようと考えています。青空を背景にした白木蓮そしてこぶしを見上げると白と青のコントラストが何とも言えません。

 喜び、怒り、哀しみ、楽しみそして羡望の感情は起伏が大きいために、たくさんのエネルギーを必要とします。しかしぺンペン草と蔑まれているナズナを思いやり、抜いてもすぐ生えて茂り黄色い花を咲かせるカタバミを芝生の敵とせずに、そして柴犬に踏みつけられても赤い花をつけるカラスのエンドウを何気なく眺め「ああきれいなあ」と感情の小さな起伏を起こせられれば、何と省エネで一日が変化に富むことでしょう。

 出家して三十一文字に詠嘆を託す程枯れることが出来ぬならば、「まあこんなもんか」とやけっぱちにもならず、250ヤードに挑み、二日酔いにも負けず、柴犬に文学新人賞を取らせるべく教育し、雨の日も早朝散歩を日課として暮らすのみです。



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