城東渭山同窓会

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創刊7号

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【支部総会レポート】

小原、森本両先生を迎えて大いに盛り上がる

城東13回 大津 栄子

平成十一年度の城東渭山同窓会東京支部総会は、六月十三日(日)新宿の「銀座アスター」において百八名の参加者で盛大に行われました。

幹事の役回りは城東十三回生でした。学校と本部より浅香校長、仁田会長はじめ六名の参加をいただき、又恩師小原和夫先生、森本康滋先生をゲストにお招きし、現NHKエグゼクティブアナウンサー蔭山武人氏(十三回生)のユーモアあふれる巧みな司会のもとに進められました。来賓紹介のあと、支部長、校長、本部会長順に挨拶があり、副支部長の音頭で乾杯をいたしました。

浅香校長のお話では、四年前に発足した硬式野球部が大活躍をしており、春の大会では初めて決勝戦に進出したとのこと、甲子園出場も決して夢ではないことをお聞きし、私達の頃とは隔世の感があり、とてもうれしく、母校生徒の活躍を皆で応援したいと思われました。

昭和三十四年から四十四年まで在職なさいました小原先生、三十二年から五十二年まで在職なさいました森本先生からお話を伺いました。両先生とも、永遠の青年の風貌をそのまま残し、今なおお元気で情熱を燃やしていらっしゃる様子に、私達の人生の先輩のモデルとしてとてもたのもしく、励まされる思いでした。小原先生は、新しい教育の場での苦労話を、昔の口調そのままに若々しくお話下さり、又森本先生は、去年に引き続き、地球環境保護活動、とくに先頭に立って進めていらっしゃる「高速道路に木を植えよう」の運動の様子を、ヴィデオを使って大変詳しく熱心に説明して下さいました。私達の生徒時代に、山歩きと自然について、沖縄の森について語って下さった口調と情熱は少しも衰えることなく、ライフワークを語る先生は青年そのものでした。今年もカンパの募金箱を回しました。おおぜいの人達がお金を入れていましたので、少しは活動の助けになったでしょうか。

 中華のお料理も、特別サービスをして下さり、とても豪華でおいしいものでした。 それぞれのテーブルで話の花が咲き、別のテーブルの友や恩師のもとにかけつけて旧交を暖めたり、記念撮影をしたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎ、最後に恒例の徳女、城東の校歌を斉唱して支部総会を終了いたしました。当会のために徳島や関西方面からも列席して下さった方々もいらっしゃいました。ここで皆様に深くお礼を申し上げるとともに、又次回も楽しい会になりますよう、幹事一同願っています。


【徳島より】

チャレンジ城東

校長 浅香 寿穂


東京支部の皆様にはお変りございませんか。

さて、本校は二〇〇二年に百周年を迎えます。同年から校舎改築が始まり、二年後には新校舎に移る予定です。教育改革の中で、本校の伝統を礎にさらに磨きをかけた施策をと同窓会の皆様ともども計画いたしております。

年度当初に、生徒たちに「戦え城東」を提唱しました。いささか過激で時代錯誤な感じがすると思われるでしょうが、本校の校訓とされる校歌にうたわれている讃え・築き・まもる城東であるためには、戦わなければと考えました。城東生が、めまぐるしく変化・発展し続ける新世紀の世界の担い手として、世界の人々と手を携え、夢や希望に向かって、それぞれの人生を逞しく生きていくためには、何よりもまず一人ひとりの個の確立がなされなければならない。それには自分自身との戦いが必要であろう。また、何事かへの挑戦は新たな道を切り開くことになるだろうと。これからの日本は、先進国に範を求め、模倣するだけでは立ち行かなくなります。未だ経験したことのない事柄に積極的に挑戦するチャレンジ精神が求められています。私は城東生に、所属集団の同調圧力や横並び意識を克服して、自分の意見を積極的に発表し、新しい道に挑む勇気と自由闊達な進取の気性を期待しています。さらに、本県における城東の立場を考えれば、組織のリーダーとしての資質も必要です。つまり「まとめ役」をそだてていくことが、本県のみならず広く国際社会において世界の人々から信頼され、国際的な組織をもリードできる人材を輩出することになると考えるからです。

昨年度の文化祭で城東ミュージカルを上演しました。県教育委員会の教育文化推進事業の一環として助成を受け、二年間かけて実施されたものです。今年の三月二十四日に徳島市文化センターで開催された「城東高校演奏会」(十年ぶりの定演です)で、オーケストラ部の演奏会とあわせて再演し、好評を博しました。

また、一昨年の秋、十四名のフランスのサンジョセフ高校生が二週間程本校に滞在しました。このことから姉妹交流として今年の三月十五日から三十日まで、二十名の城東生と引率教員をルアーブル市のサンジョセフ高校に派遣し、まじめな態度が絶賛されました。

東京支部の皆様、ご帰郷の際には是非母校にお立寄り下さい。


変わりゆく徳島から変わらない心で

城東渭山同窓会副会長

城東19回 川 添 眞理子


東京支部の皆様、こんにちは。御健勝にて御活躍のことと存じます。

二〇〇二年を迎え、徳島県も随分と様変わりして参りました。この三月には高速道路が愛媛県川之江東JCまで開通し、これで四国四県の県庁所在地がハイウェイで結ばれました。また、一九九八年に開通した明石大橋によって、大阪まではバスで二時間三十分で到着です。我々の年代が学生の頃、本州に車で行くにはフェリーを利用する以外に手段がなかったのにと時代の変遷のスピードの速さをつくづく感じています。眉山の下には「阿波踊り会館」が昨年オープンし、毎日有名連による阿波踊りが繰り広げられ、ロープウェイも新しくなりました。私達の母校のすぐ近くにあった動物園も移転し、よく昼休みに抜け出して遊びにいった児童公園の観覧車も今はありません。

何より、明治三十五年に創立された母校が、二〇〇二年には百周年を迎えます。そしてもうすぐ校舎が建て替えられようとしています。今度の新校舎は空調などが検討されきっと近代的な建物になることでしょう。

我々の年代の当時の母校は今よりも運動場は狭くて体育祭のときなどは、本当にこんな狭いグランドで行うのかと思いながらも、それはそれなりに楽しかった思いがあります。丁度、第一次ベビーブームの最後の頃に産まれた私達の時代は、教室の後ろの壁ギリギリまで机が並び、床はギシギシと音を立て、教室の扉はガラガラと重い引戸で、遅刻常習犯の私は先生が黒板に向かっていらっしゃる時をねらってこっそりと忍び込もうとするのですが、このガラガラ、ギシギシに行く手を阻まれ、黒板に向かって後姿の先生に「川添だろう」と即座に言われたものでした。

思い出せば一つ一つが懐かしく、多感な年頃を過した高校生時代ほどキラキラした時代はないような気がします。同窓会を開けば皆さんも同じように、何十年ぶりかで会った人でも、すぐその場で高校生当時の男子、女子に戻ることができる、それは中学時代とも大学時代とも違っていて言葉に尽くせない青春の日々。きらめく思い出の時代。

 時は移り、世の中の価値観も変わり、街の風景も母校の校舎も変わって行きます。けれど母校は青春の心の故郷。いつまでも卒業生の胸に熱い思いとともに生き続けるのです。


雨の中に

徳女33回 井澤 久子(旧姓 中村)


また激しく雨が降ってきた。庭の桜の枝が荒々しく振り回されて揺れている。あの子はどうしているかしら。

一昨年(八月十六日月曜)の午後、病院へ行っての帰りのこと、バス停でベンチに腰を掛け、回数の少ないバスを待っていると、パラパラと、思いがけない雨が降ってきた。この頃は変なお天気で、何時もこうなので。気管支が弱くこじらせてすぐに肺炎になるので、雨に濡れるのがこわい私は、タクシーにしようかなと思ったが、屋根もあるのでそのまま腰を掛けていた。と、目の前の、頻繁に車が行き交う六車線の車道の中央分離帯の植木を跨ぎ、左右を用心深く窺っている白い装束の人がいる。八十八ケ所詣りの装束だ。なんて無謀な人なんだろうと見ていると、一寸の隙を見つけてこちらに走って来た。私の横に立って雨を凌ぐ様子。杖には白い木綿の靴下何段にもくくりつけられ垂れ下がっている。四足分くらいありそうだ。顔を見上げると、思いがけず爽やかにすっきりとした少年だった。驚いた私が「どこから来たの」と声をかけると、あっさり「東京」と答えた。「バスに乗るの」「いえ、歩きます」。そうか、このバス停で雨宿りなんだ。少年は「十八番まで行くんです」と言って、頭陀袋から何度もめくったらしいお寺の写真入りの大きな本を取り出した。「宿はあるの」「野宿です」。頭陀袋には畳んだ水色のビニールがくくりつけられているが、しかしそれだけの簡単な出で立ちである。ちょうど孫の年頃だと思った。「何年生?」「三年生です。僕の学校は五年まであるのです」「専門学校?」と聞くと、頷いて、「二十六日まで行きます」と言った。孫と同じ年だ。躰は孫より少し小柄で、顔は何だか幼い感じがした。もっといろいろ話したいと思ったのに、いつもはなかなか来ないバスが近づいて来た。私は「頑張ってね」と言っただけでバスに乗った。

席に腰を下ろして身を落ち着かすと、どうしてあの少年に何かしてあげなかったのだろうと思う気持ちがいっぱいになり、引き返したくなる程悔やまれた。お遍路さんには接待ということがある。子供の時、祖父に連れられ、鷺の門前のお堀端でお遍路さんが来るのを待ったことを思い出した。乳母車にお遍路さんにさしあげる「目菓子」と言っていた、指の通る丸い穴の開いた、麦粉で作った菓子をいっぱい袋に入れて持って行った。どうしてあの少年に何かお接待をしてあげなかったのだろう。無性に何かしてあげたい気持ちが募った。孫の年頃の子だったもので、年のせいという訳でもないが、胸がいっぱいになり、思うように話せなかった。いつもなら待つのが長いバスが早く来たのも恨めしく、またバスに乗った自分が悔やまれてならない。

あの子は今どのあたりだろう。この雨の中、どうしているだろう。桜が激しく揺れ、激しい雨音をたてているのを見ていると、胸がいたむ。

夏休み中にこのようなことをする若者がいることへの驚きとともに、孫と同じ年の子の、清々しい顔をした少年の瞳を想い、あり得ぬことだろうが、どうぞまた何処かで会うことができますようにと、涙ぐむような思いで祈りながら、雨風に激しく揺れる桜を見ていた。


伊豆の旅

徳女42回 小澤 稔子


近畿みどり会(徳女42回生の会)のお誘いで伊豆の旅に参加いたしました。何しろ卒業以来のことで誰が来られるのかも知らず、果たしてお顔が分かるかしらと不安でしたが、お会いした途端に霧散霧消すぐ学生時代に戻って花が咲き、韮山の反射炉まであっと言う間に着いてしまいました。大砲を百門も造った先人の偉業もそこそこに修善寺へ。

独鈷の湯そびらに淡き冬桜 源頼家公の墓に詣で、何度打ち直しても死相の現れる面しかできなかった面打師の話しを思い出しながら1日目のお宿嵯峨館着。聞きしに勝る立派な宿で四千坪の所々にある露天湯のどれに入ろうかと迷うほど、すっかりお大臣の気分に浸りました。翌日は浄蓮の滝の前で記念撮影、いよいよ天城越えです。

木洩日に瑠璃を深めて冬揚羽 川津七滝を一気に下り、ループ橋に感嘆の声をあげつつ、下田は唐人お吉で有名な了仙寺と宝福寺に哀れな人のよすがを偲びました。国の重要文化財の岩科学校、壁を塗る鏝で艶やかな女人や千羽鶴を描いた左官の長八美術館を精力的に見学。

長八や大見得切りて鵙猛る 蘭の里へはバスで十分程、小高い丘の広々とした植物園ではいろどりも豊かに咲き誇る蘭の数々、そのあまりの芳香にすっかり酔ってしまいました。

吊り橋に気宇壮大や蘭の里 最終日の今日は堂ヶ島の遊覧船に乗る予定でしたが生憎、風が強くて欠航、急遽象牙美術館に変更して地元の桜葉業者の山元氏が十数年の歳月をかけて収集された、主に中国美術品の宝石画に目を奪われ、正面に富士山を望む三津港に出て錨をおろした豪華客船のスカンジナビア号に乗船。

冬霧の洗い上げたる美男富士

舳に立ちて富士引き寄する小春凪

メインダイニングルームで洋式のランチに舌鼓をうち名残りを惜しみつつ又のお逢いする日を約して今回の伊豆の短いようで長かった旅を終えました。黒一点参加の谷様のご主人も終始笑顔で和やかに楽しく旅を盛り上げて頂きました。戦中、戦後の厳しい時代を生き抜いて今ミレニアムを迎えようとしていますが、ふり返ると何だか夢を見ていたような気がいたします。これからも前向きに明るく生きてゆきたいと思います。皆さんご一緒に頑張りましょう。

50歳にて

城東19回 村瀬 幸一


先日、私は50歳の誕生日を迎えた。会社の早期退職優遇制度を利用できる年齢に達したのでフリーエージェント宣言を友人知人たちにメールを送ったところ〔半ば冗句で〕自重を求める返答が相次いだ。この五十年はなんだったのか…漫然と生きてきたような気がする。会社ですごしてきた時間が一番長く、現在の会社に入って二十六年になり、経過を綴って見ることにする。二十四歳の時に神戸に本社があるオール商会《通称》という外資系(ノルウェイ)商社の船舶代理店部門にはいり主にトランパー《不定期貨物船》のオペレーションを担当した。仕事内容は日本に入港する外国船の入出港の官庁の手続き、検疫所、税関、入管、海運局など、水先案内、タグボート、綱取り、警戒船、荷役業者、検数会社、鑑定人などの手配、給水、バンカー《燃料》の手配、乗組員の交代、病院の手配、船のドック入りの手配、商社との荷渡し打ち合わせなど多岐にわたっており、その後外国客船の入港も増え、二十七歳ぐらいでサガフィヨルドというノルウェーの客船を神戸で初めて担当し、その後いろいろな客船をハンドルした。

たとえば、パールオブスカンジナビア、ロイヤルバイキングの三姉妹船(スカイ・スター・シー)ロイヤルバイキングサン、クイーンエリザベス二世、ニューアムステルダム、日本船でパシフィックビーナス、オリエントビーナスなど。今年三月にはロッテルダム六世号が長崎、鹿児島、大阪、東京に初寄港する。また外国客船が入ったことがない石垣島の港に、オーシャンパール号を初めて入港させるべく交渉の為十五年ほど前石垣島を訪れその後沖縄本島も頻繁に仕事、プライベートで訪れている。

入社後、転勤などで次のように住居を変えた。

神戸勤務 一九七四
神戸市灘区石屋川
横浜勤務 一九七四
横浜市港北区大倉山
大阪、神戸勤務 一九七六
神戸市灘区篠原南町
神戸市須磨区北落合『結婚』一九七八・五
神戸市須磨区妙法寺 一九八四
横浜勤務
横浜市港南区上大岡 一九八六・三・一
東京勤務
川崎市中原区井田杉山町 一九八八・三・一
川崎市中原区井田中ノ町 一九九三・九・一
東京都品川区西五反田 一九九八・四・三
《現在》
入社時三〇〇名ほど社員がいたが、八十五-八十六年の円高不況、バブル後の不況でいろいろな部門がリストラされ六十名に減少している。同業界においてはなくなった会社のほうが欧州系では多くこの十数年は外資といってもアジア系が多くなっている。

三十才過ぎで労働組合を結成、全海連に加盟したのも大きな出来事だった。

神戸で結婚したが子供には恵まれなかった。妻は結婚後二度入院したが現在は至って元気であり、私も三十才で肝炎を患ったが妻と同様元気であり、その源は石垣島のウコンをのんでいる為と思っている。

神戸の妙法寺でマンションを買ってすぐ転勤になり、その後は賃貸派である。まだ引退出来る歳ではないが、そのうち徳島にベースを構え、第二の故郷神戸、第三の故郷沖縄を季節ごとに住み替えしたいと望んでいる。


夢の中へ

城東21回 森 優子


昨年のクリスマスイブ私は東京ミレナリオの会場に向かいながら、城東高校以来の友達に電話した。仕事で忙しくしている彼女にイルミネーションのすばらしさを伝えたかったのだが、電話から聞こえてきたのは、「今徳島におるんよ。脇町に帰っとんじゃよ」と、はっきり脇町弁であった。二十五年振りに実家でお正月を迎えるらしい。(徳島のお正月ってどんだっただろう。そう言えば二三日前、先輩も帰省するっていってたなあ)と、母のお雑煮の味も思い出せない自分に気付き、目に写る華やかな風景とは裏腹に、私も親孝行しに帰らなければいけないかなあ。と妙にしんみり考えてしまった夜だった。

最近つくづく、徳島はいいなあと思う事がある。(渭山同窓会はもちろん。年のせいだと言われるけど)吉野川の豊かさ、ピンクの色に煙る眉山の春、学校帰り徳島公園でお堀を見下ろしながらいつまでもおしゃべりしていたあの頃。遠くで操車場の音がしていた…。

何事にも真直ぐに向き合い、よく笑い、泣き、傷つく事もあったけれど、詩を読み、絵を描き、悩みながらも毎日フワフワと生きていた気がする。

卒業から三十年過ぎた今、子供達も巣立ちの時を迎え、私も自分自身の人生を生き始めている。五年程前から劇場アナウンスやコンサートの司会等仕事としているが、同時に、語り、朗読劇の勉強も始め、時々舞台に立たせてもらっている。「言葉に魂を。心を伝えるのよ」と先生にくり返し叱咤され、もがき苦しむ時もあるけれど、想像力をかき立て、全身全霊で表現しようとする時、あの三年間のフワフワした毎日が無駄ではなかったと実感し、徳島の自然が、人が、私を育ててくれたと確かに思う。何故かいろいろな場面をはっきり思い出し感じることができる。駅前の「白馬」のお好み焼きのにおいさえも…。

開演前、スタッフとああでもないこうでもないと打ち合わせし、慌しくしている舞台裏にいると、やっぱり現場が好きだなあと浮き浮きしてしまう。「開演十五分前カゲアナどうぞ」の声に、大きく深呼吸し、マイクのスイッチに手をかける。「一期一会」と言い聞かせ、心を込めてお客様に話しかけよう。

稽古の帰り、ミスド(ミスタードーナッツ)で女子高生に混じって熱く夢を語っている私達は、やはり現実離れをした不思議なおばさんかもしれない。お好み焼きからドーナツへと変化はしたが状況は同じなのだから驚いてしまう。(いや、もっとパワフルになったと思う)

いつも応援して下さる方々に育てて頂いて、増々夢の中へ入って行ける幸福に感謝しつつ努力する毎日である。


徳島からの 近況報告

城東23回 藤田 善史


昭和四十七年城東高校卒業。昭和五十三年に徳島大学医学部を卒業し、眼科学教室に入局した。当時の眼科学教室を主宰したのは故三井幸彦教授であったが、そこで医師としての基本的な心構えと科学的な思考を学ぶことができた。当時の三井教授は大変厳しい方であったが、わずか直径24?の眼球内にある水晶体を、手術用顕微鏡を使用し取り出す白内障手術は、まさに神業であった。

その時から眼科手術に魅せられた私は、徳島大学での十年間、小松島赤十字病院の六年間、開業後の四年間、手術とともに過してきた。もちろん、手術が自分の思うように行かなかった症例も多くあるが、その方たちにも誠心誠意、医師としてつくすよう努力をしてきたつもりである。

小松島赤十字病院に勤務していた時、白内障手術は五日間の入院が必要であった。しかし、開業してからは入院せずにできる外来手術とした。入院は患者さん本人にとっても家族にとっても大きな負担となるし、米国では白内障手術は外来手術とした。手術術式は、以前のような水晶体を全部取り出す方法ではなく、超音波を使用し、水晶体を砕き吸引する新しい方法である。患者さんにとっても侵襲は少ない。水晶体を取り出した後、二つに折りたたんだ人工の柔らかいレンズを眼内に入れる。入れたレンズはすぐに元の形状に戻る。ただし、手術用顕微鏡を使用した大変細かい作業であるため、正確に短時間で手術を終えることが大切である。

手術後、眼帯はせずに、目を覆う特殊な眼鏡をかけ、三十分程度リカバリールームで休憩し、自宅に帰ることになる。帰宅後しばらくは見えにくいが、翌日起床後、来院する時には木々の形、信号の色もはっきりと見えるようになる。現在、年間二千五百例の方の白内障手術をしているが、自分でものを見ることができた喜びの声を聞くことが私にとって最大の喜びである。今年二月にはミャンマーに白内障手術の指導に行く予定であるが、大学卒業後、研修をしていただいた三井教授のことを思い出しながら、これからの若い眼科手術医の育成ができたらと考えている。




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