城東渭山同窓会

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創刊6号

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支部総会レポート

真鍋嘉代先生、山川邦直先生、森本康滋先生の三人をお迎えして139名、たいへん盛りあがりました

城東12回 坂本 弘


 平成十年度の城東渭山同窓会東京支部総会は、六月十四日(日)新宿・京王プラザホテルにおいて、一三九名の参加者で盛大に行われました。

 幹事役回りは城東12回生で、川角喜一君の司会で進められ、本部会長・支部長挨拶に続いて、浅香寿穂学校長によって、母校の近況等についてのご報告がありました。

 小生の在校時代と異ったスポーツの隆盛や、文化面での数多くの活躍ぶりを伺うにしたがって、母校の発展を頼もしく感じた次第です。

 本年も城東での在職期間の長かった真鍋嘉代先生、山川邦直先生、森本康滋先生をゲストに迎え、また城東卒の現役の先生方、同窓会本部から妹尾会長をはじめ、多数の方々のご出席をいただきました。

 支部総会は各テーブルでの和やかな歓談のなかで、京王プラザホテルの緑川総料理長の"解説付き"の料理をいただくという趣向もありました。

 圧巻はゲストの森本先生による、ミニ(?)トークでした。

 『エコロジー緑化』と題して、先生のライフワークである地球環境保護活動を語っていただきました。植樹にあたってのご苦労や、樹々が根付いた様子をOHPを使っての具体的なご説明は、三十分を超える熱弁となりました。そしてカンパの募金箱を廻して、ほぼ予定されたであろう金額(?)を『エコロジーの森を創る会』に協力するという、大変な盛り上がりとなりました。

 限られた時間の中での押した時計を気にしつつ、最後に"お楽しみ福引"を行い、全員で恒例の校歌(徳女・城東)斉唱をして、支部総会を終了しました。

 ところで、このような紙面で身内(12期生)を誉めるのは、如何なものかとは存じますが、敢えて……。

 小野南海子さんを中心とした、女性幹事団の団結力と行動力、加えて熱意には、良妻賢母を育成する伝統の校風が生きていることを、小生には実感させました。会場が名前の通った場所であるがゆえのプレッシャーをはね返す人集め=広報活動。"お楽しみ福引"の景品に瀬戸内寂聴大先輩の『源氏物語(巻一)』の直筆サイン本二十冊を確保。お土産には荷物にならぬ小さい物を…等々。

 ご出席いただいた全ての方々にお礼申し上げると共に、地元や関西からも、空席の目立つ会場にしてはならぬ、と駆けつけてくれた同期生にも感謝しております。

 素晴らしい一日をありがとうございました。


徳島より 『校風は今も健在にして』

校長 浅香 寿穂


 原生林に覆われた雄々しき渭山を仰ぎ、夕焼けを背にしたやさしき眉山をながめながら、生徒たちが生き生きと通学する姿は、今も変わりはありません。

 同窓会の皆様には、各々の職域におかれまして何かとご多忙の毎日かと存じます。日頃は母校と後輩のためにご支援ご高配をいただき心から感謝を申し上げます。

 本校全日制過程は、現在三十一学級です。高校の適正規模は最大二十四学級と考えられていますから、マンモス校ぶりが一目瞭然です。今年度の三年生は十一学級あり、学年全体の生徒の進路・学力の多様化は年毎に進みつつあります。

 本校は本県有数の進学校でありますから、教育の重点目標の第一は、学力の向上においています。しかし、ただ単に進学のみが目的ではなく、望ましい人間教育を土台にして、その上に進路実現をめざし、生徒の生徒にわたる自己実現を果たす教育が大切だと考えております。勉強さえできれば他は黙認するというのではなく、高校生として当然の生活習慣や規則正しい生活のリズムを身につけることが学力向上の基盤になっていることを、本校は長い教育実践の経験の積み重ねから学び、確信をもって日々教育実践をしております。

 本校は徳島市の中心部に位置し、前身が女学校ということもあり、市内普通科六校の総合選抜制で、生徒は各校平均化されたといえども、落ち着きと穏健さがあり、スマートで自由な校風は今も健在です。本校の動向については、地元のマスコミが逐一報道してくれ、全県的に注目の的となっております。

 十月十五日から二週間余り、本校に十四人のフランス人高校生がやって来ました。これを縁に彼らが通う私立サンジョゼフ高校と姉妹校を結び、交流を深める予定です。

 また、同窓会、PTAの方達が県に陳情してくださったお陰で、十一年度から校舎改築に向けて始動する運びとなります。

 今後母校と後輩にいっそうのご支援をお願い申し上げますとともに、同窓会のご発展を祈念し、母校の近況の報告をもってご挨拶といたします。


『感動を元気の糧に』

城東渭山同窓会副会長
城東46回 中川 裕子


 昨秋、リッカルド・ムーティはスカラフィルハーモニーをつれて来日されました。「運命の力」から「ローマの祭」まで、繊細で力強く情感あふれる演奏に、ホールは熱い感動に盛りあがってゆきました。その後知人の紹介で楽屋でムーティさんにお会いする事ができました。楽しい時間はあっという間にすぎてロビーに出るとバッグのないのに気付きました。私は急いで引き返しノックしてそっと扉を開けますと、奥の方で数人の紳士が輪になって打ち合わせの様子でした。「あの……」といいかけた私に、何とムーティさんがさっと近づいてきて「おお、バッグなら私が知っているよ、おいで」と廊下いっぱいにゆくオーケストラの群れから守ってくれるかのように、私の肩をしっかりと抱いて一緒に保管室まで往復して下さったのです。

 この世界的指揮者の何というご親切!

 さりげない優しさに、嬉しさのあまり茫然としながらも頭の下がる思いでいっぱいになりました。

 さて私達は地球という星に生まれて空や海、山や川、花鳥風月など人の力では絶対創り出せない大自然の恵みによって生かされて来ました。その美しさ壮大さは、田園・モルダウ・九十九里浜・等々の詩や音楽に歌われ、また絵画となって心を豊かにしてくれています。自然こそ病める現代人の癒しの根源なのです。

 この半世紀は自然破壊に明け暮れた時代でした。先進諸外国では謙虚に反省し、近自然工法で公共事業を進めていますのに、日本では長良川河口堰の悪評を認めながら、ふるさと徳島の吉野川にも可動堰を造ろうとしているのです。もちろん多くの県民は、江戸時代から二百五十年機能してきた(すぐれもの第十堰)の価値がわかっているので、可動堰はいらないと言っています。私も市民の一人として、この運動に参加して思うことは行政に逆らうことの難しさです。驚き悲しみ憤り、空しくなっても、遠く険しい道のりを、挫けず合法的平和的に歩んでゆかなければなりません。こんな時、一見何の関係もないような音楽の感動、前述の人から見ればたわいない出来事などが、どれほど心を潤し勇気を与えてくれるか知れないのです。感動を元気の糧として、自然に人々に、少しでもご恩返しができたらと願っています。

 東京支部の皆様、清流吉野川が永遠でありますようどうぞ応援して下さいね。


『四国八十八ケ所巡拝・心の旅』

徳女38回 大栗 敏子


 三年前の四月十五日朝、私たち夫婦と徳島出身で主人の旧友の三人は、第一番札所霊山寺の前で深く深く拝礼していた。

 徳島市交通局主催の「四国八十八ケ所霊場お遍路の旅」のスタートである。

 皆、これから始まる十二泊十三日の行先きに心躍る期待と微かな不安な気持も残していた。しかしその僅かの不安も-弘法大師と同行二人-きっとお大師様が守って下さるであろうと言う安らぎに打ち消されてもいた。

 四国に生を享けた者にとって八十八ケ所巡りは「一生に一度だけは…」と言う願いがいつも心の隅にあった。その巡礼の第一歩を発心の道場…第一番霊山寺から踏み出したのである。八十八ケ所はお大師様ゆかりの地に定められていて、その修行の程が偲ばれる遺跡が各所にある。第二十三番は薬王寺、薬に頼っていた古来から厄除けの寺としても親しまれ、私も子供時代母に連れられて詣でたなつかしい想い出がある。高知三十六番青龍寺に参詣した折り、先年中国旅行で脚を運んだ西安の高台に立つ同名青龍寺で、高僧恵果阿闍梨と修行された大師の事が強く甦った。

 室戸岬にはその風景が(空海)の名前の由来にもなった二十四番最御崎寺がある。 又、主人が入隊した事のある善通寺には第七十五番が建立され信仰を集めている。 こうして恙がなく揃って八十八番大窪寺に到達した時には、自然に涙が溢れ出していた。

 徳島駅前の旅館で巡拝の疲れを癒した翌朝、巡拝の総仕上げとして、唐から帰国したお大師様が開創された高野山金剛峰寺に参詣する。奥の院は老杉や桧が茂る中、20万基を超える供養塔が並び、弘法大師の足下に眠れば極楽往生ができると言う信仰に依るものとかで、歴史上の人物も多く見出す事ができると言う。

 お大師様と同行二人の御加護に守られて、願望を達成した三十名の一行は、充足感に満ち満ちていた。

 その夜は宿坊光明院で元気を取り戻し、翌朝、全国に別れて行く巡拝の方々と名残りを惜しんだのであった。

 いま、私の部屋の壁には、大窪寺で拝受した主人と連名の結願の証が輝いていて、各寺で朝夕勤行した事が、昨日のことのように思い出されてくる。  (旧姓 原)


『中国での悲惨な時代を生き抜いて』

徳女41回 三木 陽子


 私が女学校を卒業したのは昭和二十年三月でした。其の後家庭の事情により、奉天に行きました。満鉄に入社し四月に団体で行き、奉天の親類の家に着きそこから奉天技術員養成所に勤めました。奉天は大都会で、日本人の家が整然と建ち並び、外地の様な感じはなく、其の上食料品でも何でもあり大変驚きました。六月迄は穏やかでしたが、七月に入り戦争が厳しくなり、ソ連の空襲の噂が聞かれる様になりました。

 女、子供の疎開が始まり、私も八月一日に女二人子供二人と同じ会社の人と、汽車に乗り宮口に行き日本人の家に疎開し八月十五日の終戦を知りました。九月の始めに奉天に帰りました。住んでいた家には行けず、別の社宅に住みました。

 奉天にはソ連軍が侵入し略奪や、満人の暴動等で大変危険な状態で、家の窓や入口には板を貼り厳重に警戒しました。女は一歩も外に出ない様にし、其の上頭を坊主にし男装をし、いつソ連兵が入ってくるか分からない不安な日々を一ヶ月ばかり過ごしました。運よく恐い目にも会わず隠れておりました。敗戦を境にして日本人の立場が逆転し大変厳しい現状となりました。

 十月頃より少しずつ治安もよくなり、外に出られるようになりましたが、会社も収入も無く食料品やお菓子等を仕入れ、町に出て売り、又持物を売ったりして日本に帰る日を待ちました。その間男性は使役として働かせ、日本が築いた工場の機械や資材、個人の財産を毎日貨車に積み全部ソ連に持って行きました。

 冬になると0度以下の寒さになり、奥地にいた開拓団の人々が来ましたが、飢えと寒さの為に死亡する人が出、遺体をお寺の庭に穴を掘り埋めておりました。

 戦争の悲惨な現実をいろいろと見て来て、此の世の中で二度と戦争はしてはいけないと強く肝に命じました。言語に尽くせぬ苦労をしましたが、お陰様にて二十一年七月に無事日本に帰ることが出来ました。本当に幸運に恵まれて何よりの幸でございました。

 五十数年たった今まだ満州の日本人孤児の方々の姿を見ると、感慨無量で胸が一杯で大変悲しい思いがいたします。

 七十年過ぎた今、元気で好きな事が出来る事は、何にもまさる喜びでございます。これからも一日一日を大事に楽しく過ごしたいと願っております。


『初個展を終えて』

城東19回 松丸 光


 高校時代は後藤春潮先生に、日本画の初歩を教わりました。

 美術部では、油絵受験を目指す先輩のデッサンや、文化祭の折に、色紙に墨でバラをさらさら描く筆の動きに見とれていました。けれども好きなだけで続けていた私が、絵画とは何だろうという最初の壁に、突然つき当った苦しい時代でもありました。

 教室は図書室の裏の扉のない一角でした。イーゼルを立て、県展の為試行錯誤している私に、小原先生や阿部先生はよく声をかけて下さいました。

 その頃、職員室の前のタイプ室の窓からは、新校舎建設の様子がよく見えました。ゆっくり地面に白線が引かれ、杭打ちが始まったかと思うと、あっと言う間に空間が埋まってしまい、タイプ室の窓まで圧迫を感じたものでした。平面から一挙に空間を支配する様子は鮮烈で、絵を描くのもこんな風に、最初に完成図があって、後は仕上がっていくだけならよいのにと、建築家が羨ましくもありました。

 タイプ室での石膏デッサンも、動きや比例に捕われ、深い形の意味がわからず、白黒の調子の幅の乏しいものでした。枚数をこなせば何かがわかるのではないかという思いだけがありました。

 その思いを支えたのは、小原先生が聞かせて下さった市原先輩の事だったかもしれません。先輩はラグビー部で活躍しながら、合間の時間をみつけては蜜柑を描いていると、「心眼が開けて中味まで見えてくる。」というのです。デッサンの本に書かれている事よりも強烈な言葉でした。

 単純に未体験な事に憧れ、そんな境地に少しでも近付きたいと夢中の高校時代でした。

 卒業後いろんな事がありましたが、今はゆったりと、見る人の心が気持ちよくなるような絵を、一枚一枚を大切に描き続けたいと願っています。

 昨年(一九九八年)十一月に銀座の「ギャラリー21+葉」で、多くの方々のお力を得て私は初めてのテンペラ画個展を開催する事ができました。私の作品を見ていただける事はもちろん、会場が新しい出会いの場になった事も嬉しい事でした。又、渭山会では皆様にお目にかかれる事を楽しみにしています。


『出身地』

城東20回 依田 政雄


 「出身地は、どこですか?」そう尋ねられることが多々ある。「出身地」という言葉、あまり好きではない。辞書には、「生まれ、育った場所」と出ている。僕は、「元本籍は長野県、生まれは福井県、高校を卒業したのは、徳島県です」と、答えることにしている。父の勤務の関係で、二十回近くも転居した。小学校は、三つ変わった。中学校は、二校だった。高校で初めて、入学した学校を転校せずに、そのまま卒業することが出来た。それも高三の時、一年間アパート住まいをして。

 徳島県に転居したのは、中三の二学期だった。小松島中学校に転入し、卒業した。中学と高校を卒業しているので、書類等で「出身地」の記入欄がある時は、ためらわず、徳島県と記載している。

 多感な青春時期を送った城東高校の三年間は、正に僕の青春の原点であった。入学して柔道部に入ったが、男子生徒が少なくて、廃部となってしまった。二年になって、新聞部に入った。卒業アルバムには、弁論部員としておさまっている。

 二年の時、生徒会長をやらせてもらった。生徒会担当の後藤善猛先生、生徒の良き理解者だった。僕の長男も、高校の時、生徒会長をやった。現在中二の長女は、生徒会副会長をやっている。不思議な思いを感じている。

 僕も四十八才になった。長男は、今年大学を卒業、二男も専門学校を卒業、二人とも家から巣立って就職する。四月からは、妻と長女の三人暮らしになる。

 ここ十年程、仕事で多忙な毎日だった。過去を振り返り、昔を懐かしむ心のゆとりを失っていた。二月下旬には、転勤の予定である。職種も変わるだろう。この原稿を依頼されたのも、一つの契機となった。卒業アルバムを取り出して見ると、懐かしい顔が並んでいた。一年担任、仲尾衛先生。二年担任、山川邦直先生。三年担任、中滝順義先生。親友の西條、竹治、河野。生徒会や部活を一緒にやった、川内さん、礒貝さん。三年間、片思いしたKさん。etc、etc。高校を卒業して以来三十年、実家がある訳でもなく、一度も徳島の地を訪れたことはない。しかし、僕にとって徳島は心の故郷、「心の出身地」と言える。恩師、級友が暮らしている。そしてたくさんの、淡い青春の思い出が、そこにあるのだから…。


『あの日』に帰れるなら

城東21回 村上 早代子


 もし帰ることができるなら、私の『あの日』は城東時代でしょうか。あの頃からもう随分と年月が流れたのに、今も自分の中にあの頃と同じ自分を見つけることがあります。年を経ても魂?は変わらないのでしょうか。親や周囲の人達に暖かく見守られ、好きな絵を描き、友と笑いころげ、他愛もない事で悩んでいたあの頃が、いとおしく思い出されます。あの頃のみんなは今、どうしているのでしょうか。

 現在私は、都立技術専門校でパソコンの講師をしています。山田洋次監督の『学校III』の舞台になった学校で、少しその存在が知られるようになりました。再就職での仕事ですが、もう十五年ほどになります。現在はハンディキャップをもった方たちのクラスと、キャリアアップのための講習会などを担当しています。私にとっての仕事は、当初は自分自身の経済的自立が目標でしたが、現在はいろいろな人との出会いを楽しむ余裕を持てるようになりました。仕事での出会いが自分を育ててくれていると実感しています。当面の目標は、出会った人たちとのホームページによるネットワークづくりです。最近「仕事を辞めたら徳島に帰ろうかなぁ」と思い始めているのですが、インターネットの普及で、徳島に帰っても東京で得た仲間とのコミュニケーションや、情報収集に困ることもなさそうです。

 徳島には毎年夏に帰省しています。私は脇町の出身で、実家に帰ると、私の原風景とも思える吉野川を毎朝のように散歩しています。新聞で目にする吉野川河口堰の問題は、今気にかかることのひとつです。

 今回お声かけいただいたことで、改めて故郷の事、これからの事を考えるきっかけになりましたことを、感謝いたします。


『29年という年月について-』

城東21回 久次米 義敬


 高校を卒業してから二十九年になります。

 よく個人的回想では「色々あったが、アッという間に過ぎた」という言葉で語られるのですが、二十九年という年月、近代史の流れでみるとどうなのでしょうか。

 フランス革命からワーテルローの戦いまで、ビスマルクが首相に就任してからカイザーに解任されるまでの期間が、我が高校を卒業してから今までとほぼ同じ年月です。

 その間、何が起こり何が終わったのでしょう。前者は絶対王朝が崩壊して「自由平等博愛」の時代になり、校舎はプロイセンという一小国が大ドイツ帝国にまで興隆しました。更にそれぞれの同年月の後、フランスは二月革命前夜、ドイツは第一次大戦に敗北。大ドイツ帝国は滅び、ワイマル共和国になります。

 日本の例を出せば、西南戦争から日露戦争まで、米騒動から現憲法の施行までの期間が同じく二十九年間です。

 歴史のうんちく話が目的ではありません。歴史的にみると二十九年間というのは「色々あって、アッという間に全てが変わる」歳月であるという事実を述べたいのです。

 さて、私たちの高校時代。当時日本は高度成長の真っ只中。だれも今日の経済破綻を予測しませんでした。戦争といえばベトナム戦争でしたが、勝利したベトナムからあんなに多くの難民が出るとは…。ソ連の革命五十周年パレードを思い出しますが、そんな国もう存在していません。

 高校二年の夏休み、ソ連がチェコスロバキアに侵攻したというニュースをその時の残暑とともに覚えていますが、あれから二十九年。ドプチェクさんはその間、営林署の一職員として働いていたのです。

 ベルリンの壁が崩壊(こんなことが私の生きている間に起こるとは思わなかったヨ)。チェコスロバキアに春が戻り、復権なったドプチェクさんが官邸のバルコニーから集まった民衆に抱擁のポーズをとった時、私は涙が止まりませんでした。

 江戸明治と両時代を生きた福沢諭吉は、「一身ニシテ二世ヲ生キル」と詠嘆した由。あれから二十九年が経ちました。



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