城東渭山同窓会

同窓生のコミュニケーションの場を提供する

Email:info@izan.jp

創刊11号

創刊11号

このエントリーをはてなブックマークに追加


平成15年

森 嵩(城東第7回)


私は城東高校を卒業してから47年も経過しており、すでに現役も引退しているので、よく言えば悠々自適、自嘲的に言えば無駄飯を食っている毎日である。従って皆さんにお話できるようなすばらしいことは何一つしていないが、もてあましている暇を潰している動きの一端を述べてみる。

今年の4月から非常勤で20年前に勤めていた組織のお手伝いをはじめたが、出勤してみて最近の警戒の厳しさに驚いた。事業所の敷地入門時にチェックを受けることは私のような昔型の勤め人にも理解できるが、各建物の入口には受付の女性とは別にガードマンが立って、入退場する職員が携帯している写真付きIDを確認するのは勿論、建物の中の移動もIDカードをセンサーに近づけて扉を開けつつ進むようになっていた。出勤初日はまだIDカードを作ってもらっていなかったので、臨時のバッジを着けていても、誰かにエスコートしてもらわないとどこにも行けない状態であった。もっとも困ったのが扉の外にあるトイレを利用するとき、近くの人にお付き合いをお願いしなければならないことで、このときは幸い毎回数分間待たせるだけですんだが、もし腹の調子が悪くなったりして、長時間トイレの前で待ってもらうには、いちいち恥ずかしい事情を詳細に説明しなければならないはめに陥ったのではないだろうかと、つまらない心配をしながら久しぶりに出勤初日の仕事を楽しんだ。

私は現在年金生活者であるが、まだ元気に働く意欲はあるので何か社会のお役に立ちたいと考えている。年金を支える国の財政事情は厳しく、そのうち3人で1人の年金生活者を養うことになるということを思うと心苦しい。せめて自分の健康に留意して、介護保険や健康保険の財政悪化防止に努めるのも社会貢献の一つではないかと思い、近所にフィットネスクラブが昨年夏にオープンしたのを機に筋力トレーニングをはじめた。最初はインストラクターに作ってもらったメニューに従ってトレーニングに励んでいたが、そのうち筋力が付いてきたような気がしてうれしくなり、ムキムキマンを夢見て自分で負荷をどんどん増やしていったところ、肩がこりはじめて、その次に右手にしびれを感じたので整形外科で調べてもらった。その結果、頸椎の変形が確認されそれが原因らしいという診断であった。この年になって必要以上に鍛えようとつい頑張ったのがよくなかったらしい。サラリーマン時代の必死で努力する悲しい習性が災いしたようである。頭では何でもほどほどにするべきだと承知しているつもりでも、実際は分かっていなかったのだと反省している。これで頑張らない大切さを学んだ。

時々山登りを楽しんでいる。しかし年をとってから始めたので本格的なものではなく、ただ歩くだけののんびりしたハイキングである。そこで登山計画をするときなどに山の紀行文や案内書を見る機会があるが、その土地の歴史や山の地質的な説明、さらに高山植物の生態系についての記述が多く、行く前からわくわくさせてくれる。実際に登山道で可憐な花を見つけると疲れを忘れさせてくれる。私が特に好きなのが、コメツガやトウヒの純林に美しい苔のついた岩などがある登山道を歩くときである。私も帰宅してからその感激した想いを記録しておきたいと写真付きで登山記録を書くようにしているが、花、樹木、鳥、地理等の知識がないので、「黄色い可憐な花」とか「きれいな鳴き声の小鳥」としか記述できないので、読み返しても迫力に欠けた文章になって面白くない。すぐれた紀行文を読むと、樹木や地理のことを書いているだけではなく、その学識の深さを感じさせる著者に対して心から尊敬することが多い。私もせめて樹木と花の名前くらい正確に知りたいと図鑑を買ってきて調べては見るが、これがまた難しい。山には重い本は持って行きたくないし、小さな図鑑ではほとんど用をなさない。高山植物でも、花については家内が同行しているときはほとんど教えてもらえるが、何回も同じ質問をするので、その覚えの悪さにあきれて馬鹿にされている。名誉挽回にと自分なりの植物図鑑を作れば少しは知識も深まるだろうと思い立った。山ではサンプル採集はできないので、デジカメに写して帰宅後パソコンで拡大して調べているが、樹木などは木の肌、葉・花・実の色や形が季節やその他の条件によって変化するので、写した写真の像のピントが合っていないこともあって、名前を特定するのが難しい。とても植物図鑑までは作れないことを悟った。しかし、こんなことに悩みつつ写真や行動記録の整理をしながら自分しか読まない登山記録を書くのは実に楽しい。


『思い出』

今から、何年前のことでしょうか、瀬戸内寂聴さんが新訳源氏物語の出版に先立ち、新刊紹介の講演会のために、ニューヨークに来られたことがありました。

マンハッタンにある日本クラブでの講演会のあと、その翌日に開かれたニューヨーク徳島県人会主催の歓迎会でお会いする機会がありましたが、その時のことをふっと思い出しました。

寂聴さんは、城東高校前身の徳島女学校出身ということもあり、なにかとても身近な気持ちでお話しする事ができたように思います。とてもお元気で、絶え間のない笑顔に明るい張りのある声をお持ちで、黒い袈裟がよくお似合いのとってもチャーミングな尼さんでした。阿波踊りまでご披露して頂き、感激の一日でした。

日頃、あまり日本人と接することがなく、普段は仕事に、プライベートにと全て英語での生活の私にとって、こういう集まりは、まるで故郷に帰ったような気持ちにさせてくれます。

特にその時の集まりは、日本人同士であるうえに徳島県出身者、それに加えて寂聴さんは城東の大先輩という、私には最高のパーティーでした。

何か、いつも忙しく、そして駆け足で走りっぱなしの毎日でした。

ニューヨークでの生活、そしてインテリアデザイナーとしての仕事は私を虜にし、15年が過ぎようとしています。いま改めて、時の経つ速さに自分でも驚いています。色々なことが次々におこりましたがその中でも、とりわけ、2001年9月11日の大惨事は今でも昨日のことの様に覚えています。なんだか悪い夢を見ているような、現実の世界では到底予想不可能な大惨事が、あの抜けるように青い空の朝に起こってしまいました。人々を恐怖のどん底に落とし、やり場のない怒りと悲しみへと駆り立てましたが、その時の、ジュリアー二市長のすばらしい陣頭力、そして団結した市民が一体となり、街の復興を成し遂げようと、みんなで必死にとりくんでいる様子をマンハッタンの住人として見守っていましたが、感動的でした。益々、この街への愛着心が増えていったのは言うまでもありません。それから、それに続くように始まった、再三に亘る、以前にも増しての更なるテロ行為実行をほのめかす数多くの脅迫等など、そして遂に、イラク戦争へとなってしまいましたが、その都度、街の警戒度は増し、緊張感の張り詰めた毎日が続きました。そんな特別体制の中でも、一般市民は日常生活を殆ど普段と変わらずに送れたのも、やはり、この国の、そしてこの街のパワーを人々は信じ、また信頼しているからに他ならないと思います。

私の住まいは、マンハッタンの中でも特に賑わった地域にあり、ビジネスと劇場やホテル等が立ち並ぶ繁華街を隣り合わせに控えた高層建築アパートのなかにあります。眺めや立地条件など文句はないのですが、やはり、度々にわたるテロに対する警告のビラを、ロビーにエレベーターの中にと見るにつけ緊張したものでした。特に高層アパートビルはテロリストの次の標的と言う情報が流れたことがあり、かなり緊張したものでした。

戦争等一応一段落とみられる今でも街は、以前よりすでに始まっていた不況のせいもあり、ビジネス等まだ尚、元気だった時の様にはまだまだ戻っていませんが、世界中からやって来る観光客の活気も少しずつ戻りつつあるようにみられます。劇場の多いブロードウェィも以前の様ににぎわい、世界の高級店が揃う5番街もマディソン街もショッピング客で溢れる日も近いことが感じられます。

数多くあるミュージアムについては、入場者の数が減ったり、企業や政府団体からの寄付金等も以前のように集められずで、予定していた新築、そして改装計画の変更やキャンセル等が相次いでいるようです。深刻な経営難に陥っている現在の状態から、早く脱却して欲しいものです。週末にはたいていどこかのミユージアムで過ごしている私には特に寂しい限りです。

ニューヨークでなければということはなかったのですが、私はむしろ、サンフランシスコのアートカレッジを87年に卒業した時、日本に戻り、大好きな東京でインテリアデザイナーとしての第二の出発を始めようと思ったのですが、、、、、

あまりにも、日本の業界は其の当時、私の方向性と違っていました。何とか私の場所を創りたかったのですが。その夢叶わず、そして2年後に再びアメリカへ、今度は、以前のアメリカ留学時代の知り合いのデザイナーのいたニューヨークにしました。この私の決断は間違っていませんでした。この街には私が欲しかったもの全てがありました。

世界の文化のるつぼと言われている街の躍動感、価値観の多様性、などなど、他のアメリカの都市等では見ることの出来ない特殊性に溢れた、非常に魅力のある街でした。

まるで、ヨーロッパに居るようでもあるし、時には南米やアフリカをさまよっているような、又、アジアの街を歩いているような気持ちになれるのが、たまらなく新鮮で、私のデザイン感覚を快く刺激してくれます。文化や世代を超えた感覚はとても、ユニークで、クリエイティブな世界を存分に楽しませてくれます。今では、私にとって、ニューヨークでなければ、というのが本音のようです。

私が小学生の頃、父からプレゼントされたピンク色のレコードプレーヤーとアメリカの音楽の入った赤いソノシートには、確か“金髪のジェニー”、“草競馬”等が入っていて、そのソノシートが擦り切れるほど、聴いたこと等覚えています。最初にA、B、Cを教えてくれたのも父で、毎年夏休みには徳島のOSグランドでディズニーの映画を観た後、西新町にある経済会館の地下にあったレストラン(今でもあるのでしょうか?)でフルコースを妹と楽しませてくれたのも父でした。

そうした父でしたから、我が家には、外国の雑誌、写真、本等が色々とあり、日常の食生活でも父は洋食をとりわけ好んでいたようでした。60年代中頃に建てられた我が家は父が設計したもので、当時としてはとてもモダンなデザインで廊下を出来るだけなくし、ひろいリビングルームを中心に間取りを考えた、とても斬新で機能的なものでした。建築士でもなかった父は独学で住宅専門誌等で研究をしながら自分で平面図だけでなく、外観の側面図まで引いていたのを思い出します。その当時小学生の高学年だった私は、何度も何度も図面を食い入るようにみながら、その完成した家を想像し、楽しんだものでした。

今では全て、徳島での遠い昔の懐かしい思い出です。

それから、今、40年余りが過ぎ、家の様子も時代とともにだいぶ変わりました。

そして父も8年前に、私とニューヨークの街を歩くことも叶わぬままに、逝ってしまいました。ただ、今でも母はこの家が大好きで、父の思い出と一緒に一人で住み続けております。

今に思えば、私がこのように日本を遠く離れてアメリカに渡り、インテリアデザイナ-としての職業を選ぶようになったのも、その父の影響が潜在的に作用してわたしを、ここへ、そしてこの職業へと導いて来たように思えてならない今日この頃です。


また、城東高校は、戦後の満州の引き上げ者であった父にとっての、初めての教師としての勤務校だったと聞いております。



『薫風の学び舎』

城東35回 津川 佶樹


春の風に乗って流れてくる沈丁花の香りを感じると、必ず思い出す風景があります。

それは合格発表前日の城東高校です。新しい生活への期待に胸を膨らませながらペダルを漕ぎ、正門前に着いた時の風景。閉じられた校門の脇に咲いていた沈丁花の花達。薄曇りの空の下、そよ風に乗り、私の鼻孔を心地よく刺激した沈丁花のあの香りを、卒業してから二十年近くも経つ今でも鮮やかに覚えています。

あの沈丁花は今でも在校生達には春の訪れを告げ、新入学生達にはその花言葉の通り「栄光」ある人生を祝福するがごとくに優しく迎えているのでしょうか。

あの正門から入った正面にあった体育館は私達の在校中に取り壊され、今の体育館が建てられました。その二階で行われた瀬戸内寂聴さんによる創立八十周年記念講演を憶えています。

その体育館の一階で三年生の夏休みの間、城東祭でクラスで出演する「真夏の夜の夢」の準備に追われました。ステージに配置する背景画を作成している時、ふと開けた窓から流れ込んだ真夏の風と体育館のマットに染み込んだ汗の臭いに妙な感傷を抱いたものでした。あの体育館も取り壊され、私達が三年間を過ごした学び舎もリニューアルされるとのこと。後輩達には新しい校舎で沢山な想い出を作って欲しいと思います。

同じ年の秋、眉山が紅葉で色付き始めた頃、受験前の出陣式として沖の州海岸で、ファイアーストームを行いました。桂先生、安友先生から旧制高校の寮歌を教わり、クラスメート達と円陣を組み、雨の中で寮歌を声が枯れんばかりに歌いあげたあの日。安友先生の「己を信じ、友を信じ、担任を信じ、いざ行かん!」の言葉は今でも耳に残っています。

木枯らしと共に受験シーズンが到来し、それまで鍛えてきた筈の自分の学力がいかに貧弱であったのかを思い知らされる日が続きました。それでも落ち込むこと無く、毎日が輝いていたのは、素晴らしい仲間達と校舎に染み込んだ歴史の重みがあったからでしょう。

あれから二十年。鮮烈な青葉が街並みに初夏の訪れを告げ、水田の苗達も爽やかな風と戯れる季節が再びやってきました。

今では三児の父となり楽しい日々を、そして外資系生保の社員として厳しい戦いの日々を過ごしています。「あの時にもっと勉強しておけば良かった」と思うことも少なくありませんが、あの城東高校三年間は今の私を支えてくれる大事なエレメントの一つです。先日、三年間の「渭山」を読み返しました。あの頃の胸に抱いていた情熱。「友」を信じ、「己」を信じ、「担任」を信じて希望と夢に燃えていた三年間が甦ってきました。あの仲間達は元気にしているのでしょうか。私と同じように関東の地で頑張っている友もいます。亡くなった友もいます。視力を失っても、逞しく活躍している友もいます。

徳島の土を踏むことも稀になり、帰省しても徳島空港と実家の往復のみとなってしまいましたが、子供達に胸を張って語ることができる、魂を焦がして三年間を過ごした城東高校をいつの日にか見せてやりたいものだと思います。


« »