城東渭山同窓会

同窓生のコミュニケーションの場を提供する

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創刊4号

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「故郷は遠きにありて…」

城東10回 池内 紀昭

 NHKアナウンサー室チーフ・アナウンサー蔭山武人さん(城東13回生=昭和37年卒)の巧みな司会に、会場のムードは最高に盛り上がった。昨年6月9日、東京・一ツ橋の如水会館。城東と徳女の東京同窓会総会。

 ここ数年の同窓会の呼び物は、同窓の有名人による特別スピーチ。この年は日展会友で日展審査員も務めたことがある日本画家・市原義之さん(城東13回生=昭和37年卒)。

 市原さんは、高校時代をラグビー一筋で過ごして、美大へ進んだ異色の経歴。美大受験を決めた心境や、プロの画家としての出発点になった絵の思い出、制作の苦心話などを語った。淡々とした語り口の中に、真の美を追い求める芸術家の真摯な人柄がにじみ出て、示唆に富んだ感銘深い講演だった。

 出席者百四十余人。うち、徳女の同窓生が二十人ほど、徳女勢は、ここ数年減り続けていたが、46回生の小林洋子さんをはじめとする徳女幹事団の尽力で前年に比べて倍増した。最年長の出席者は、昭和2年卒業の井上(旧姓杉山)英子さん。卒業後ほぼ70年の大先輩である。井上さんは、戦後長く城東高校内で売店を開いていて「購買のおばさん」と親しまれていた人だ。

 城東高校校長の岩田忠男先生や同窓会長の鹿子恭志さんらが並ぶメーンテーブルに、昭和24年から38年まで十四年間にわたって城東高校で教鞭をとった宮岡常夫先生の姿があった。

 担当教科は英語。ラグビー部の監督として、正月の「花園」や国体など全国大会に何度も出場させ、「城東ラグビー」の黄金時代を築いた恩師である。

 この日も、宮岡先生と話したいと取り囲む、かつての「女生徒」がひきもきらなかった。ともあれ、仕事の苦労も生活の悩みも無関係な、少年・少女時代の友達との逢瀬は楽しく、砂漠のただ中のオアシスに憩うとはこんなものなのか、と思わせた三時間であった。

       ※ ※ ※

 徳島を遠く離れたわれわれにとって、「故郷は近きにありて思うもの」でありたい。故郷が「異土の乞食(かたい)となるとても帰るところにあるまじや」では淋しすぎる。幸い、われわれの「心の故郷」城東高校と徳島高等女学校は、毎年一度きりだが、六月に「同窓会総会」としてすぐ近くに現れてくれる。そこには、訛り懐かしい阿波弁が飛び交い、心許しあった同期生の顔がある。今年は六月八日の日曜日、城東11回生と徳女同窓生が渾身の力を込めて準備を整え、迎えてくれる。この「心の故郷」に集い、心ゆくまで旧友と語り合い、また一年後を約して散じようではありませんか。



城東高校近況
『35年ぶりラグビー部花園へ!』


校長 岩田 忠男

 城東渭山同窓会東京支部会報「藍」四号の発刊、心よりお祝い申し上げます。また先般開催されました東京支部総会に出席させていただき、百五十名に余る会員の皆様の母校に対する温かい思いにふれさせていただきまして感慨深いものがございました。

 本年度の特筆すべき事柄といたしまして、ラグビー部が花園への切符を手にしたことが挙げられます。実に三十五年ぶりの出場となります。今年のチームは、春の時期より優勝争いに加わり期待されていましたが、秋の決勝戦では徳島市立高校に大差で勝利をおさめました。OBの方々から気力の充実した見事な試合で、黄金時代のチームを彷佛とさせるプレーが随所にみられたとの言葉をいただきました。花園の一回戦では新潟県の巻高校と対戦します。

 昨年に新設された硬式野球部では、初陣では鳴門高校に二十二対0で大敗こそしましたが、夏の選手権大会では辻高校に初勝利をおさめ意気あがっております。部員も増え甲子園めざして練習に取り組んでおります。バスケットボール部はここしばらく優勝から遠ざかっていますが、着実に力をつけております。全国大会へはバドミントン部が毎年出場しており、弓道部、登山部もインターハイへ出場しました。他のクラブも体育部、文化部ともに活発に活動しております。

 進路に関しましては、東京大学、京都大学などの国公立大学に140名、早稲田大学、慶応大学など私立大学に196名が進学しております。

 本校は、昭和四十七年に総選校として、城南、城北、徳島市立と共に四校総合選抜制度を取り入れました。その後、田宮に城ノ内高校が新設され、五校になり、今年度には、城東高校北島分校に隣接する所に徳島北高校が新しく開校することになりました。その結果、徳島市内六校による総合選抜へと様変わりする予定です。現在三学年で三十六クラスですが、本校は来年度の一学年は十クラスになりやや減少します。選抜方法こそ変わってきておりますが、徳女から連綿と続いて居ります伝統はいささかも変わることなく現在に至っております。

 高校教育は大きな変換期をむかえております。城東高校の伝統の上に立つ個性豊かな学校を目指し、自主自立のできる生徒の育成をめざす教育を実践し、幾多の先輩諸氏に続く人材を送り出したいと思っております。今後とも母校に対するご協力ご支援をお願いいたしますとともに東京支部の益々のご発展をお祈りいたしております。



『徳島もがんばっています!』

城東渭山同窓会長
城東18回 鹿子 恭志

 私と城東の同窓生との交流は、三十年間ずっと続いております。

 大学時代には、下宿に泊まり騒いだり、小旅行でハプニングを起こしたり。又、真剣に人生を語り合うこともありました。

 そういう仲間が二十人程おります。徳島に帰ってからも、今に至っています。受験前には、普段遊び好きの仲間も、さすがに目の色を変えて勉強を始めました。夜中におなかがすくと、近所の原田雅芳君の部屋に「ヤットルカ」と押し入り、屋台のラーメンを食べに行ったり、わが家には、門をよじ登って二階の私の部屋に来ていたこと。今思えば、付合いの原点は高校時代にそんなことをしたことにあるようです。

 もちろん皆の結婚式にも出席したし、親の葬式にも…。親戚付合いのようなものです。悲しかったのはメンバーの絹川修三君が、二年前に亡くなったことです。

 現在も二ヶ月に一度、酒を飲んだり、持ち回りで奥様の手料理をいただいたり、ゴルフ、囲碁、卓球、遊びにかけては、すぐに輪が出来ます。反対に困った時にも助け合うので、どんなに心強いか。

 六年前に「十八回卒の同窓会をしよう」と誰かが言うと、即、輪が広がり、あっと言う間に百二十名の会となりました。先生方も十六名出席いただき、大変喜んでくださいました。どうも四十の声を聞くと、青春時代が懐かしくなるようです。

 十八回卒の同窓会は五年ごとに開くことになり、二度目は今年の八月に阿波観光ホテルで開催されました。前回同様、庄野孝博君、高丸三知さん、青木泰斗君がまめにお世話くださり、新たに五十名の初参加で二百名近い盛大な会になりました。

 話題の中心は、子供の事、仕事の話。二次会になるとカラオケが中心で、高校時代の様に心が軽くなりあっという間に三次会です。こんな会をお世話しておりますと新たにお付合いが始まることがあります。

 先日、平井洋子さん(旧姓奥角)からお手紙をいただきました。一年前に御尊父を亡くされ、お父様への心の整理をなさり、人生訓「悠然と生きる、正々堂々と勢いよく」ということをご自分の心の糧にしようと書かれていました。御尊父は、私と同業の会社の大番頭さんで業界では大変有名な方でした。業界に貢献なさった、大先輩の生き方に深く感銘を受けました。同窓会でお会いしなかったらこういう交流もなかったと思います。

 反対に気がかりもあります。第一回同窓会の四ヶ月後に八ホームの同窓会を青山君のお世話で開くことになりました。その時、娘さんに支えられ、杖をついて来られた女性がありました。四ヶ月前は肺の手術のため欠席しましたが、もう二度と同窓会には出られないと思っていたのに、出席できてうれしいと、涙ぐんでおられました。しかし第二回の時には、彼女の姿が見えませんでした。



特別インタビュー
城東時代は・音体・ひとすじでした

城東16回 瀬戸内 美八さん
せとうち・みや 女優。本名は桑内瑠美子。


 城東高校には2年まで在籍、宝塚歌劇団に進む。スケールの大きなダンスと声量豊かな歌で定評があり、月組のトップを務める。現在は徳島市在住。ダンススタジオ主宰のほか、全国各地のイベントで活躍中。

–-瀬戸内さんは16回生ですね。

瀬戸内  はい昭和37年入学です。でもご承知のように、高校2年で宝塚に入ったので、正式には卒業していません。だから永らく卒業生名簿に名前がありませんでした。でも今はちゃんとありますよ。ついこの間も徳島の方では同窓会があって、私も参加しました。皆さん、素敵に年を取られて…。楽しかったですよ。

–-では、その宝塚入学前後のことをお話していただけますか。

瀬戸内  これは知る人ぞ知る話しでして、私は初めから宝塚を目ざしていたわけではなく、全く偶然のきっかけなんです。高校2年のお正月に、大麻ハン(大麻比古神社)でおみくじを引いたのです。そうしたらその中に「あなたは今年、芸能界に入るといいでしょう」というようなことが書いてあったの。

 それから家に帰って徳島新聞を見たら、宝塚の入学募集の告知が出てたの、これはもう神様のお引き合わせ、ということで、怖いもの知らずで受験したら、たいへんいい結果が出た、ということなんです。

 ただ私がこんな風に宝塚に入ったという話をすると、宝塚に入るのは案外やさしいんだ、と思われるかも知れませんが、それは違います。今や入学の難しさは東のT大、西の宝塚といわれるぐらいですから、宝塚にかぎらず今の芸能界、ミュージカル関係では、今、通用しなければダメだという考えが強いようです。幸いにも、といいますか、私が受験したころの宝塚では、その人の才能、可能性、雰囲気といったものを、じっくりと見てくれて大事にしてくれたと思います。ただ入学してからは、それはそれはつらかった。一年間ぐらいは毎日泣いてましたよ。

–-城東時代はいかがでしたか。

瀬戸内  私は音体部に入ってました。これは結果として、宝塚入団にも入団後もたいへん役に立ちました。

 とにかく高校の2年間はこの音体ひとすじ、当時は城東の音体部といえば県内だけでなく、県外でもその名は知られてましたでしょ。

 宝塚での歌とか踊り、それもかなり長い時間それを続ける、というのは、結局体力勝負なんですね。これにはこの音体時代の練習がとても良かったと思います。 

 私、けっこう根性もありましたよ。

 実家が石井なんですが、駅までかなり距離があって、そこまでは自転車で行きますが、これもかなり体力のいることでしたし、当時の練習の仕方も今とは違っていましたよね。今の運動選手は、練習中にも、練習後も充分に水分の補給をしますけど、私達は練習後、熱いお茶をゆのみに半分というような。でも私には、これはこれで良かったと思ってます。

 今は新体操というんですか、城東高校はどうなんでしょうか。

 友達にしても、クラスメートはクラスメートでなつかしいのですが、この音体部の仲間というのはやはり格別ですね。

–-今は徳島にお住まいですね。

瀬戸内  はい、宝塚に20年いまして、退団した後一年ほどアメリカに行って、帰って来てからは徳島です。ジャズダンスが主のスタジオですが、一昨年に末広の倉庫街に引っ越しました。

–-今の城東高校について。

瀬戸内  私のスタジオにも中学生の女の子がレッスンに来ますが、高校の志望を何げなく聞いてみると、どうもI高が多いんですね、どうかもっともっと魅力的な学校になってほしいですね。

 それから、おしまいになってしまいましたが、梅本先生のことです。

 当時、音体部の顧問の先生で、在学中はもちろん、宝塚入学の際にもたいへんお世話になりました。ここであらためてお礼をいいたいと思います。



恩師 先生

なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況を、みなさんにお伝えします。
『行成先生の思い出』

徳女40回 榎本 佐代子

 徳女に赴任されて始めて私達の歴史の先生として教壇に立たれた行成先生黒縁のめがねの奥に優しい目があり、きりっとした口もと、しゃべると白い歯が行儀よく並んで意志の強さを感じさせる好青年であった。昭和十五年だったと思う。当時日支事変が深みに入りアメリカやイギリスとの間に不穏な空気が濃くなりつつあった中での東洋史の講義であったが実にさわやかで真っすぐで温か味があふれていた。私達は時間が経つのも忘れて二千年以上も前の秦の始皇帝の中国に引きつけられ夕日に映える万里の長城に思いをはせたものである。驚いた事に私が入部していたバレー部に担当として行成先生が来られた。決してお上手ではなかった。ポーンポーンと飛ばすだけで私達はポンちゃんとあだ名をつけてしまった程であったがその熱意とひたむきさは何時の間にかチームをひとつにまとめ活気づけていった。

 あれから五十年以上の歳月が過ぎ、先生は城東高校の校長に就任された時期もあり、先生の影響を受けて巣立った生徒は数限りなくいると思う。戦災で徳島が丸坊主になった時も、敗戦の後の空しさと不安の中でも常に私達を支え力づけてくれた根性とエネルギーは先生から教わったものが少なくなかったような気がしている。



『楽しい想い出ありがとう』

大西 正


 三七年におよぶ教員生活を終え、もう二年が過ぎてしまいました。終ってしまえば本当にあっという間の短いような気がします。

 そのうち城東高では昭和三五年四月から四一年三月まで心から楽しく充実した日々を過ごすことが出来たと思っています。当時のことを少しづつ想い出してみますと三五年はすべて旧校舎の木造二階で校門は北側にありました。とにかく校舎が古いものですから二階で少しでも騒ぐと一階の天井がミシミシ大変なものでした。私が担任していた十四Hが校長室の真上にあり元気な生徒が多かったのでよく校長室に呼ばれ天井からゴミが降ってくるのでどうにかして欲しいといわれたものです。当時の校長は岡淳先生でとても温厚なお人柄で私が唯一尊敬できる校長であっただけに余計に恐縮しました。

 そのうち校舎の改築が始まり当時のグランドに現在の鉄筋校舎が少しづつ建っていったものですから新旧の両校舎で敷地内がいっぱいで、ついにはグランドがなくなるということが起こりました。それで体育の授業は二時間続きとして西ノ丸、ろう学校、さらには新校舎屋上などと不便をきわめ生徒の皆さんには不自由を強いて申し訳なく思っています。

 城東高校での忘れられない事件が一つあります。ある生徒四~五人が大神子でヤクザ屋さんの経営するボートを沈めてしまったのです。当の生徒の一人が私にヤクザ屋さんと話をして解決してほしいと言ってきました。私にはその筋の知り合いがあるわけなどなく困ってしまいましたが、生徒がそれ以上に困っているのだからと引き受けてしまいました。私の宿直の夜当のヤクザ屋が職員室にやってきました。相手方の要求をききそれが正当な金額であれば支払うことを伝え、それが正当か否かを警察に判断してもらうと電話をとろうとした瞬間この話しはなかったことにしてくれと言ってすっとんで帰りました。あの時の愉快であったこと。時効となった今も思い出します。



近況・雑感  『曽つて私も乙女ざかり』

徳女・併中2回 後藤 登志子

 毎朝、校門で後を振り返る。上級生が来たら端へよけて、いっせいに「おはようございます」と最敬礼、上級生はスーッと通り過ぎる。二年になったら、上級生風を吹かそうと楽しみにしていたものの新入生はなく、私たちは四年間最下級生であった。それを思いおこすと、返す返すも口惜しいとS子はぼやく。私にはその様な思いはかけらもない。お堀端を右に折れて校門までひた走る。茶色いリボンをゆらめかせた制服姿は一人も見当たらない。何しろ滑り込みの常習であったから。

 英語授業の時、岡田先生が学友の米人男性を招かれた。「皆さんの好きなスポーツは何ですか?」ナマの英語に楽しい緊張感で耳を傾ける。バスケット、バレー、フットボール、威勢よく手をあげたのは私一人。Ahaとゲスト先生の笑顔。テニス…ベースボールと続く。ン?私の好きなスポーツはベースボール=ソフトボールなのだ。ソフトとフット。聞き違い、早とちり。全身が火照り消え入りたい思いで、見たこともないフットボールを大好きなスポーツだと自分に言いきかせていた。

 下校は、いつもS子と一緒であった。大道へさしかかると、やはり下校途中の徳中生とすれ違う。二人共ツンと横をむいてやり過ごす。そんな彼等とも共学のおかげで、後に同窓生となる。上級生に憧れた徳女時代、淡い恋心も知った高校の頃。三十数年を経て青山のお寿司屋に集まった。徳女併中二、城南高校三期、徳中ブービーの人達。昔日の少女の面影、はにかんだような青年時代の笑顔が浮かび、打ちとけた団らんのひととき。

 五十年来の悪友、写真館の当主S子。タンゴの名手T子医師。等々。枚挙にいとまがないが、今、熟女63歳。それぞれに煌めいて女ざかり。



『同窓会雑感』

城東12回 小野 南海子

 私は五年前の四月に主人の転勤に伴い東京に引越して参りました。たまたま幼友達(城東出身)の御主人が幹事年であった為、是非出席をとの依頼を契機とし連続四回出席して参りました。毎年幹事の方々が趣向をこらして「時の人」を見つけてこられ楽しく有意義なひとときを過ごさせて頂いてます。この様なひとときを過ごせるのも幹事の方々の御努力の賜と感謝している次第でございます。

 参加して感じます事は、若い人の参加者が少ない事です。私も若い頃に幾度か御案内を受けてましたが、卒業三十周年の同期の同窓会に出席した以外、参加した記憶がございません。

 日本国内、海外にも各県人会、日本人会が結成されている事より、日本人の心の中に「一つ釜の御飯を食べた仲」という表現に象徴されますように、日本人は“群の文化”を抜きにしては生きられない民族でございまして西欧的な個人主義や、個人と個人が自由に競い合う社会には馴み難く、居心地が悪いと本音で思い続けているところが年齢の如何を問わずあるのではないかと思われます。

 城東高校卒業生という利害得失を超越した絆に結ばれた同窓会を中高年中心の集いより一層発展させる為には、ヤングパワーの参加が不可欠だと思われます。若い人が中心となった企画、若い人が参加し易い環境作り等工夫をこらし一層楽しい会として頂ける様に期待しています。

 私も今後年をとってから新しく作るのが難しい友達を求め同窓会に積極的に出席し、仲間作りに励みたいと思います。



『同窓会私感』

城東20回 木村 明子

 私が、東京支部の渭山同窓会に出席させていただくようになったのは、平成五年からである。

 毎年案内状はいただいていたが、それほど関心も持てなかった。子供が小さかったこともあるが、それ以上に、自分の高校時代を懐かしむことがほとんどなかったからである。しかし、その年は企画に惹かれて友人を誘ってみた。他に知った人はいなかったが、とても良い雰囲気で楽しく、帰り際には、『来年も来ようね』と、しっかり約束ができてしまっていた。今年の六月で四回目になったが、二人とも皆勤である。

 どうして、毎年出席したくなったのだろう。徳島より来て下さった校長先生のお話で、現在の城東高校の様子が分かり、ゲストの方々の講演やパフォーマンスで、卒業生が多方面で活躍されているのを知ることができる。時には、城東高校が外部の人達にとってどういう存在であるのか(あったのか)実感することもある。ゲームに歓声をあげ、徳女、城東の校歌が流れる頃には『また来年ね』の気分になっているのである。

 会場にいると、徳島を愛し、母校を誇りに思っている空気に包まれる。それはとても心地良い。同窓会開催のために尽力されている役員、幹事の方々のご苦労も垣間見える。多分、そういた諸々の思いに呼ばれてしまうのだろう。

 三十年前、城東生であることを楽しむのは下手だったが、今は年一回、城東生であったことを上手に楽しませてもらっている。



『・総会・も使いようで…』

城東27回 竹中 章

 先だっての新聞のスポーツ欄を見ていると、城東高校がラグビーの全国大会に三十数年ぶりに出場するという記事が載っていました。

 全国大会に関する記事の中で、ほんの一、二行しか書かれていませんでしたが、転勤により東京勤務でこちらの生活が長くなり、徳島の情報が乏しいなかで、久しぶりに母校の名前を見つけることができ、うれしい気持ちになりました。

 いずれにしても画期的なできごとではなかったでしょうか。

 この記事が会報に掲載されるころには、既に全国大会も終っていますがよい結果を期待しています。

 今年(平成八年)の東京支部での同窓会で、岩田忠男校長先生(実は高校二年生当時の担任でした。当時はまだお若く、ラグビーボールを持って生徒と一緒に走っておられました。)が言われていましたが、硬式野球部が誕生したとのこと。私が高校生当時は、狭い運動場で、サッカー、ソフトボール、陸上、軟式野球等が練習日の割当てを決て練習をしていたように記憶しています。私はテニス部だったので、毎日のように練習していましたが、テニスコートの廻りにフェンスがなかったためサッカーボールとか野球のボールがよく飛んできたものです。今は広いグランドで練習もできることですし、これからの健闘を期待しています。

 ところで卒業生の皆さん、東京支部の総会に出席すれば、わざわざ自分たちで同窓会を企画しなくても、労せずして仲間が集ることができます。一応、総会とはなっていますがセレモニーはわずかで、仲間同士の雑談にはもってこいの機会だと思います。

誘い合って参加してはいかがでしょうか。

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