城東渭山同窓会

同窓生のコミュニケーションの場を提供する

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活動

創刊5号


『東京支部の現状』ふるってご参加を…

東京支部長

城東17回 三谷 慎治

 平成九年六月の東京支部総会で竹口前支部長より引継ぎを受けました。東京支部の皆様方の親睦を図りながら支部の維持発展に努めますのでよろしくお願い申し上げます。

 東京支部は関東地方在住の旧職員、卒業生約千九百名(内徳女約三百名)からなっています。城東卒業生のうち33回(昭和57年卒)までは各学年ともほぼ三十名以上(多い学年は百名超)いらっしゃいますが、その後は二十名台となっています。このたび同窓会本部において名簿が作成されましたので、この情報をもとに東京支部名簿を充実させてゆきます。

 東京支部のメイン行事は支部総会です。順送りの学年幹事の皆様の献身的な努力と工夫のお陰で、ここ数年参加者が増加傾向にあり、一昨年と昨年は百三十名を超えました。ただ今後の問題点が二つあります。

 第一は六月第二日曜日にセット出来るかどうか危うくなっています。ジューンブライダルの隆盛で、我々のように単価的制約のある行事は予約を取るのが非常に困難となってきています。第二は会食の形式です。消費税を含めた単価のアップにもかかわらず、会費は一万円に据え置いており、またこれが同窓会としての上限と思われますので、いずれ着席形式ながら、バイキング風の会食に変更せざるを得ないのではないかと思います。

 さて東京支部の運営には支部会報「藍」の発行費、通信費等の経費がかかっており、これらの経費は年額千円の支部会費でまかなうこととしております。ここ数年約五百名の方から年会費を送金頂いております。会員の皆様のご負担がなければ運営できない団体ですので、お手数ですが同封の振込用紙にてお振り込みのほどお願い申しあげます。

 東京支部の役員は別記のとおりですが、順次若い年次へと引き継いできています。総会幹事も順送りで引き受けて頂いております。また各学年の幹事の方には貴重な時間を割いて総会の案内の発送をお願いしております。会員の皆様方には折に触れ何かとご協力をお願いすることになろうかと存じますが、よろしくお願い申しあげます。

徳島より ご挨拶

校長 岩田 忠男


 新しい年を迎えられ、城東渭山同窓会東京支部の皆様におかれましては、益々ご清栄にてご活躍のことと、心からお慶び申しあげます。

 平成八年四月に本校に赴任してから、二年間にわたりまして同窓会の皆様には機会あるごとに格別のご支援とご指導を賜り、ありがとうございました。また本校が九十五年の輝かしい歴史と伝統の上に立って、現在でも良き校風と実績を持ち続けていられるのは、偏に先輩の皆様方の母校に対する熱い思いの賜物でありますことを、ひしひしと実感させていただきました。

 昨年の十月に同窓会名簿が新しく改訂されました。その名簿を眺めますに、本校の卒業生の先輩の方々が、徳島県下のみならず日本全国、そして広く海外まで雄飛し活躍されている様子は、誠に頼もしく思われました。名称が変わり、時代が変わっても、伝統はそのまま引き継がれていることを確信した次第でございます。

 本校は現在三十四学級千三百六十名の生徒が学んでおります。多様化しつつある生徒に対応し、個性を尊重し一人一人を生かした指導の推進と、自己教育力の育成、習熟度別学習の拡充などに努めているところです。

 現在、徳島県では学科再編をはじめとした教育改革が次々と打ち出され、特色ある学校づくりに取り組んでおります。本校でも長い歴史と伝統の上に立ち、将来を見据えた教育を実践するべく努力を続けたいと思っております。

 最後になりましたが、皆様の今後益々のご多幸とご活躍、並びに城東渭山同窓会東京支部のご発展を心よりご祈念申し上げます。


『徳女在学時を回顧して』

城東渭山同窓会会長
徳女42回 妹尾 房子

 長い城東・渭山同窓会の歴史の中で、私達の年代だけが命懸けて体験した五十年前の「通った道」を思い出して綴って見ました。

 昭和十六年四月憧れの徳島高女に入学し、その喜びも束の間、戦局は日増しに厳しさを増し、遂に昭和十六年二月八日太平洋戦争に突入いたしました。それからというものは、学園生活にも戦時色が頓に濃くなってまいりました。

 先ず第一に、憧れの制服は当時の数え歌で「五つとせ、いつまで見てもあきたらぬは、徳島高女の色ネクタイ」と若者達によく口ずさまれていましたが、その制服も時局に合わせて活動的な装いということで、国民服とモンペ姿に変容いたしました。数え歌を歌っていた若者達も次々と召されて戦場におもむき、新聞紙上や、ラジオニュースで相次ぎ散華の報道に接し、悲しみと時局の深刻さがますます増してきました。 

 私達も勤労奉仕で田植、麦刈、稲刈、芋掘り、桑の株切り等慣れぬ仕事を汗だくで、何ひとつ不平不満も云わず只黙々と、少しでも銃後の守りにお役に立てるならばとの思いで精一杯働きました。学校内では、裁縫室で陸軍の防暑服を作る仕事に携わりました。流れ作業で次々と仕事が流れてまいりまして、息つく間もなくひたすら自分の責任部分の襟のミシンかけで無我夢中な毎日でした。

 いよいよ、昭和十九年には学徒勤労動員令の発令により翌年四年生の二月、川崎航空機徳島工場に学徒動員され、毎日徒歩で佐古八番町の我が家から、北田宮の工場まで通いました。造っているのは航空用の酸素吸入器でした。私の部署は、半田付けでしたが、何分初めての経験なので一所懸命打ち込むうち、段々熟練はしてまいりましたものの、それでも時々検査に通らず、責任を果すのにつらい思いを今でも思い出し、胸が一杯になります。

 三月には一年繰上げの卒業のため、一日だけ工場から久し振りになつかしい学校に帰りました。そして翌日から又学徒動員の復帰生活が続きました。

 その当時心なごむ思い出は、あの美しいメロディー「新雪」の歌でございます。

 むらさきけむる新雪の
  峰ふりあおぐこの心
 ふもとの岡の小草をしけば
  草の青さが目にしみる

とみんなで声を揃えて歌い、明るく青春を謳歌したものです。今でもこの歌は心の糧として励みとなり、また青春がよみがえってきた心境になります。そうするうち七月三日夜半から四日早朝にかけて誰しも忘れられない徳島空襲により、一夜にして家も学校も工場も灰燼に帰し、見渡す限りの焼野ケ原となってしまいました。

 このように私達の青春は戦時下に徳女時代を過ごし、卒業の年に敗戦し、そして戦後の混乱期、新しい日本の躍進、この五十年の歳月をいましみじみとかみしめております。特に印象深い学徒動員時代の経験は、人生の一齣として、今も心に焼きついております。


『支部総会レポート』

城東11回 岡山 勝敏


 恒例の城東・渭山同窓会東京支部総会は平成九年六月八日、東京霞ヶ関、東海大学校友会館にて百三十余名の参加のもと、盛大におこなわれました。総会は11回、鈴木舜一氏の司会で始められ、本部、支部長挨拶に続き、岩田学校長より母校の近況、ならびに将来のビジョンが披露されました。特に今年はラグビー部の三十五年振りの全国大会出場や有名校への進学状況を伺い、母校が文武両道の伝統を堅持しながら発展を続けていることに同窓会員の一人として深い喜びを感じた次第です。

 また、今年は城東での在職年数が長かった真鍋嘉代先生、山本邦直先生、小原和男先生をゲストに迎え、また17回生と関わりが深い阿部健先生や現役の先生方、同窓会本部からは会長、副会長三名、顧問二名、事務局員多数の御出席を賜りました。

 今回はゲストテーブルを作らず会員の各テーブルにそれぞれ御着席頂き、懐旧談義に花を咲かせることができました。また恩師を囲んでの記念撮影もあちらこちらで行われて、なごやかな歓談が進むなかで時の経つのを忘れてしまう程でした。

 宴たけなわの頃、NHKアナウンサー室、チーフアナウンサーの蔭山氏(13回)からミニトークとして放送裏話が披露されました。三十年間のアナウンサー生活での苦労話、言葉の使い方、諺の解釈については思い込みによるミスが多いなど専門家らしい、それでいて素人にもよくわかる内容で拍手喝采を受けておりました。

 また、母校PTA会長、武久洋三氏(11回)から御挨拶をいただきましたが、二〇〇二年の創立百周年に相応しい記念事業を検討中とのことで、同窓会一同、期待に胸を膨らませながら、これまた万雷の拍手で賛同の意を表しました。

 出席者の最年長者は徳女27回卒の吉川ヨシエさんと徳島から駆けつけて下さった福島葉那子さんでお二人に今後の御健康を祈念して11回幹事が支部を代表して花束を贈呈しました。

 最後に、全員で徳女、城東の校歌を力強く斉唱した後、来年度幹事(第12回)の紹介と挨拶を受け、同窓会員一同、一年後の再会を期して、総会を終了致しました。 


近況・雑感 『思い返せば』

徳女36回 古田 種子

 「見よ東海の空明けて…紀元は二千六百年…」の歌声も高らかに卒業したのは昭和十五年である。このことだけが鮮明に心に残っていて、さて、自分は徳女何期生なのか未だにはっきりしていない。瀬戸内寂聴さんと同期といえば合点してくれる便利さもあるが、これですぐに年齢が解ってしまう不都合もある。

 女学校時代は表にでることを極力嫌い、ひたすら身を隠して日々弓道場に通った。そのころ国語教師で弓道部の顧問であった美しい鈴木先生にかわいがられて、ひたすら一人弓を楽しんだものである。

 大阪府女専卒業後すぐ県立の撫養高女で国語と弓道を教える事になったが、自分の中に人前でしゃべる才能のあることを発見、教職に専念して大いに人生を楽しみはじめた。その頃大東亜戦争は熾烈を極め、昭和二十年徳島市は壊滅、すべてが灰になってしまった。終戦、結婚、私の人生も大きく転換。大阪へ、ここで請われて布施第五中学の教師となり、教師と妻と嫁と母と・すべてを一身に背負って猪突猛進・我ながらよくやったと感心している。

 昭和三十九年の主人の赴任に伴って関東に移り、ここで家事に専念、妻と嫁と母と社会人としてのお役を背負ってこれまた猪突猛進・昭和五十年子供二人を手放し、やっと我にかえり、自分の趣味に生きる事となった。主人と主人の両親を見送って今は一人で好きな生き方をしている。すっかり忘れていた郷里徳島のこと母校のことが蘇る年齢になった。時には同窓会にも出てみようかと思い始めたとき、今までの過労から手術・療養を強いられることになった。しかし今取り組んでいる俳誌『一位の実』の発行が生涯の我が生き甲斐となっている。


『第二の故郷を顧みて』

徳女37回 稲垣 美智子

 私の青春は戦時色の次第に強まる女学校時代でした。当時の事は徳女37回の記念誌「過ぎし五十年」(一九九二年盛夏発刊)の中に友人がいろいろ語っています。この五十年誌を読むと、とても懐かしく、心も体も震えます。編集委員の方達のご苦労が有難く身に沁みます。

 吉野川の雄大な流れ。桜花の美しい眉山からの眺望。鳴門の渦で育った鯛や蛤・わかめの味。歯ごたえのある蒲鉾。すだちの色。早朝、薙刀の寒稽古のあと寮舎の食堂で頂いた熱い藷粥と沢庵のぬくもり。県庁前の新町川を渡し舟で通った朝の通学路。校章入りの黒いカバンを肩から斜めに掛け、息を弾ませて走ったこと。千人針。週一回のゴマ塩弁当の検査。農家の手伝い。軍足。配給制等。厳しさの中にも自由があり、人情味が溢れ、身につく教育をして下さった恩師。それ等が、東京生まれの私にとって徳島を心のふる里にしています。恩師行成先生は、新卒ですぐ私達五年藤組を担任されました。茶目っ気の多い生徒揃いでご苦労をおかけしたと思いますが、淡々として温かい指導をして下さいました。今も、ひたすら感謝しております。過日、一年先輩の瀬戸内寂聴さんが文化功労者に選ばれたことも嬉しい限りです。

 私は、昭和十六年の春、徳女を卒業後続いて奈良女高師に進学、十九年九月末戦時下で繰上げ卒業し、その後延べ四十五年間の教職を経て平成八年に退職致しました。過去を振返った時、徳女は、私の人間性を育んでくれた原点です。


『思う事』

城東13回 田村 允子

 十一月も終り頃、テニス友達と奈良旅行に出かけました。紅葉には少し遅れましたが、興福寺、東大寺、お水取りの二月堂、春日大社を経て、その夜は熱燗、柿の葉ずしを食べました。奈良は小学校の修学旅行以来四十二年ぶり、そして高校を卒業してからも三十五年経ってしまいました。

 昭和六十年前後。パット・ブーンやポール・アンカ、プレスリーの歌声に、自分の多感だった(?)十代の頃が目に浮かぶ。友達の顔、先生の顔もあの頃のまま。ただ、ヒット・チャートに熱中し、映画、音楽、読書など、さまざまな好奇心を満たしてくれた友達との付き合いを楽しめたのは中学校時代だったかしらと思え、その点高校の三年間というものは、どちらかと言えば進学への準備期間、といった色合いがあり、同級生とのかかわりも印象に薄く、その事は年を経て、何やら残念な思い出ともなっていました。

 何年前になりますか、久しく見送っておりました東京支部の城東渭山同窓会に勇気をもって(?)参加してみました。東京の中の徳島にいると思えるひととき。久し振りの校歌。思い切り歌ってみる。誰に遠慮がいるものか。

 そして今や毎年出席組となっております。同じ世代ってやっぱりいい。肩の力も抜ける。何でも話せる気がする。昔出来なかった話を今したい。そんな仲間意識にすっかりはまってしまったようです。城東13回生の横のつながりも出来上がってきました。個性豊かで人間味もたっぷりの人たち。

 これからもよろしくね。


『赤いレンガ塀への回想』

城東26回 花岡 浩司

 よく遅刻をした私は、当時陸上部の部室のあった裏側の赤レンガの塀を乗り越えて、プールの脇から教室に入っておりました。赤レンガ造りのそれはとてもよじのぼるに好都合にできておりました。

 現在、仕事柄、欧州特に英国とイタリアに行くことが多く、これらの国々に共通して云える事は、私の子供の頃の風景と何ら変わらず、今は東京の街中では見られなくなった赤い円柱の郵便ポストがどこでも見られ、木の電信柱が今でも役割を果たし、タクシーのドアも相変わらず自動ではなく、ロンドンでもミラノでも車で三〇分も走ればのどかな、今となってはある意味での優雅なパノラマが展開されて、私と妻にとっては、必ず云う言葉が、「ホッとするね」なのです。

 何を云いたいかというと、現在は、日本中どこにいてもリアルタイムで情報が得られ、映像が送られ、電話に至っては画像が見え、表情を見ながら話ができるようになり、来年には携帯電話がインターナショナルにもなるそうですが、私達はそれらがなかった時代でも電話のダイヤルを回して通話をし、ファクシミリや携帯電話がなかった時代でも仕事ができていたはずなのです。

 便利になった分だけ、私達は何かをなくしているのではないかといつも思います。

 今年もまた英国の赤いレンガ造りの塀を見たら、遅刻して部室の裏のそれを乗り越えて教室に入るなつかしくもくすぐったい高校生の姿に自分を重ねて想うのでしょう。


『セピアの遠景』

城東16回 玉井 誠治

 昭和三十七年、木造の講堂と体育館の間を抜けてゆく風はわずかに秋の匂いを感じさせた。体育館の軒下に作られた小屋掛けの部室は汚なく、臭気と埃りで吐きそうになった。しかしそれも一週間で慣れた。「一年は昼の時間にボール磨き」…遅れてやってきた悪しき新人がこれをよくサボった。手塚達の冷たい視線を浴びた。それまでは落ち着かない気分で山岳部(阿部先生)にいた。汚れたガラス越しに音体部のレオタード姿を横目で見ていたのは自分だけではあるまい。

 学芸(徳大)との試合に三年生が一人欠けた。何も知らぬ自分に出ろという。『兎に角、俺の斜め後ろにどこまでも付いてこい』と山田先輩。それしか出来なかった。突然に山田さんが自分にボールを投げつけてくる。ひたすらそれを抱えて前に走った。気がつくと誰も追いかけてこない。『下につけろ』犬伏さんが叫ぶ。言われるままにした。ピッと乾いた笛が鳴った。入部五日目の土曜日。初トライだった。

 校舎の立て替え時期が我々の時代だった。グランドを作ってほしいと校長に直訴したことも。学芸、工学部、城東中、ろう学校、西の丸と、その日暮らしの練習。でも充実していた。「三色」と意地で食った「ラグビーパン」の味。ジャージ、汚れた体を洗った講堂の前の水道の感触は今もある。一年の冬、ろう学校で雪の中で練習したのをよく覚えている。山川先生の撮った写真は今はすっかりセピア色。

 二年の夏、部室は二棟の端に移動した。バスケコートの前、銀杏の木の向こうにテニスコートが見えた。病気をおしての合宿は辛かった。工学部のグランド…草イキレ、照りつける太陽、脳震盪、捻挫、打撲。心身共にボロボロ。ついには休部した…。つらい闘病の日々が続いた。木枯らしが吹き、体育館が取り壊された頃に復帰した。

 三年の春に一棟の跡に小さなグランドが出来たときはうれしかった。軽い練習ならそこで出来た。六月に市立の試合で頭部に怪我。動揺した自分を多くの友人達が励ましてくれた。花束で埋まった医学部の病室。小原先生の笑顔、片山先生の言葉、見せてもらった『ヴィーナス展』の本、窓からの眺めも今も脳裏に鮮明に残る。

 三年の夏は「暑く」過ぎていったような気がする。『そんな汚ないままで泳がんといて!』と水泳部の女子。あのプールも今はもうない。秋の訪れ…日暮れては音体部にロウソクをもらったのを覚えている。

 最後の試合は市立のグランドだった。『花園』は遠くで輝いていた。森先輩らの期待に応えられずに終わった自分のラグビー。あれから多くの春秋を重ねた。拙い文章で綴られた当時の日誌を読んでみると、その多くは幻だったのではと思うときがある。だがしかし、左腕に今も残る不安な痛みと傷は確かに我が高校時代のもの。



創刊4号

「故郷は遠きにありて…」

城東10回 池内 紀昭

 NHKアナウンサー室チーフ・アナウンサー蔭山武人さん(城東13回生=昭和37年卒)の巧みな司会に、会場のムードは最高に盛り上がった。昨年6月9日、東京・一ツ橋の如水会館。城東と徳女の東京同窓会総会。

 ここ数年の同窓会の呼び物は、同窓の有名人による特別スピーチ。この年は日展会友で日展審査員も務めたことがある日本画家・市原義之さん(城東13回生=昭和37年卒)。

 市原さんは、高校時代をラグビー一筋で過ごして、美大へ進んだ異色の経歴。美大受験を決めた心境や、プロの画家としての出発点になった絵の思い出、制作の苦心話などを語った。淡々とした語り口の中に、真の美を追い求める芸術家の真摯な人柄がにじみ出て、示唆に富んだ感銘深い講演だった。

 出席者百四十余人。うち、徳女の同窓生が二十人ほど、徳女勢は、ここ数年減り続けていたが、46回生の小林洋子さんをはじめとする徳女幹事団の尽力で前年に比べて倍増した。最年長の出席者は、昭和2年卒業の井上(旧姓杉山)英子さん。卒業後ほぼ70年の大先輩である。井上さんは、戦後長く城東高校内で売店を開いていて「購買のおばさん」と親しまれていた人だ。

 城東高校校長の岩田忠男先生や同窓会長の鹿子恭志さんらが並ぶメーンテーブルに、昭和24年から38年まで十四年間にわたって城東高校で教鞭をとった宮岡常夫先生の姿があった。

 担当教科は英語。ラグビー部の監督として、正月の「花園」や国体など全国大会に何度も出場させ、「城東ラグビー」の黄金時代を築いた恩師である。

 この日も、宮岡先生と話したいと取り囲む、かつての「女生徒」がひきもきらなかった。ともあれ、仕事の苦労も生活の悩みも無関係な、少年・少女時代の友達との逢瀬は楽しく、砂漠のただ中のオアシスに憩うとはこんなものなのか、と思わせた三時間であった。

       ※ ※ ※

 徳島を遠く離れたわれわれにとって、「故郷は近きにありて思うもの」でありたい。故郷が「異土の乞食(かたい)となるとても帰るところにあるまじや」では淋しすぎる。幸い、われわれの「心の故郷」城東高校と徳島高等女学校は、毎年一度きりだが、六月に「同窓会総会」としてすぐ近くに現れてくれる。そこには、訛り懐かしい阿波弁が飛び交い、心許しあった同期生の顔がある。今年は六月八日の日曜日、城東11回生と徳女同窓生が渾身の力を込めて準備を整え、迎えてくれる。この「心の故郷」に集い、心ゆくまで旧友と語り合い、また一年後を約して散じようではありませんか。



城東高校近況
『35年ぶりラグビー部花園へ!』


校長 岩田 忠男

 城東渭山同窓会東京支部会報「藍」四号の発刊、心よりお祝い申し上げます。また先般開催されました東京支部総会に出席させていただき、百五十名に余る会員の皆様の母校に対する温かい思いにふれさせていただきまして感慨深いものがございました。

 本年度の特筆すべき事柄といたしまして、ラグビー部が花園への切符を手にしたことが挙げられます。実に三十五年ぶりの出場となります。今年のチームは、春の時期より優勝争いに加わり期待されていましたが、秋の決勝戦では徳島市立高校に大差で勝利をおさめました。OBの方々から気力の充実した見事な試合で、黄金時代のチームを彷佛とさせるプレーが随所にみられたとの言葉をいただきました。花園の一回戦では新潟県の巻高校と対戦します。

 昨年に新設された硬式野球部では、初陣では鳴門高校に二十二対0で大敗こそしましたが、夏の選手権大会では辻高校に初勝利をおさめ意気あがっております。部員も増え甲子園めざして練習に取り組んでおります。バスケットボール部はここしばらく優勝から遠ざかっていますが、着実に力をつけております。全国大会へはバドミントン部が毎年出場しており、弓道部、登山部もインターハイへ出場しました。他のクラブも体育部、文化部ともに活発に活動しております。

 進路に関しましては、東京大学、京都大学などの国公立大学に140名、早稲田大学、慶応大学など私立大学に196名が進学しております。

 本校は、昭和四十七年に総選校として、城南、城北、徳島市立と共に四校総合選抜制度を取り入れました。その後、田宮に城ノ内高校が新設され、五校になり、今年度には、城東高校北島分校に隣接する所に徳島北高校が新しく開校することになりました。その結果、徳島市内六校による総合選抜へと様変わりする予定です。現在三学年で三十六クラスですが、本校は来年度の一学年は十クラスになりやや減少します。選抜方法こそ変わってきておりますが、徳女から連綿と続いて居ります伝統はいささかも変わることなく現在に至っております。

 高校教育は大きな変換期をむかえております。城東高校の伝統の上に立つ個性豊かな学校を目指し、自主自立のできる生徒の育成をめざす教育を実践し、幾多の先輩諸氏に続く人材を送り出したいと思っております。今後とも母校に対するご協力ご支援をお願いいたしますとともに東京支部の益々のご発展をお祈りいたしております。



『徳島もがんばっています!』

城東渭山同窓会長
城東18回 鹿子 恭志

 私と城東の同窓生との交流は、三十年間ずっと続いております。

 大学時代には、下宿に泊まり騒いだり、小旅行でハプニングを起こしたり。又、真剣に人生を語り合うこともありました。

 そういう仲間が二十人程おります。徳島に帰ってからも、今に至っています。受験前には、普段遊び好きの仲間も、さすがに目の色を変えて勉強を始めました。夜中におなかがすくと、近所の原田雅芳君の部屋に「ヤットルカ」と押し入り、屋台のラーメンを食べに行ったり、わが家には、門をよじ登って二階の私の部屋に来ていたこと。今思えば、付合いの原点は高校時代にそんなことをしたことにあるようです。

 もちろん皆の結婚式にも出席したし、親の葬式にも…。親戚付合いのようなものです。悲しかったのはメンバーの絹川修三君が、二年前に亡くなったことです。

 現在も二ヶ月に一度、酒を飲んだり、持ち回りで奥様の手料理をいただいたり、ゴルフ、囲碁、卓球、遊びにかけては、すぐに輪が出来ます。反対に困った時にも助け合うので、どんなに心強いか。

 六年前に「十八回卒の同窓会をしよう」と誰かが言うと、即、輪が広がり、あっと言う間に百二十名の会となりました。先生方も十六名出席いただき、大変喜んでくださいました。どうも四十の声を聞くと、青春時代が懐かしくなるようです。

 十八回卒の同窓会は五年ごとに開くことになり、二度目は今年の八月に阿波観光ホテルで開催されました。前回同様、庄野孝博君、高丸三知さん、青木泰斗君がまめにお世話くださり、新たに五十名の初参加で二百名近い盛大な会になりました。

 話題の中心は、子供の事、仕事の話。二次会になるとカラオケが中心で、高校時代の様に心が軽くなりあっという間に三次会です。こんな会をお世話しておりますと新たにお付合いが始まることがあります。

 先日、平井洋子さん(旧姓奥角)からお手紙をいただきました。一年前に御尊父を亡くされ、お父様への心の整理をなさり、人生訓「悠然と生きる、正々堂々と勢いよく」ということをご自分の心の糧にしようと書かれていました。御尊父は、私と同業の会社の大番頭さんで業界では大変有名な方でした。業界に貢献なさった、大先輩の生き方に深く感銘を受けました。同窓会でお会いしなかったらこういう交流もなかったと思います。

 反対に気がかりもあります。第一回同窓会の四ヶ月後に八ホームの同窓会を青山君のお世話で開くことになりました。その時、娘さんに支えられ、杖をついて来られた女性がありました。四ヶ月前は肺の手術のため欠席しましたが、もう二度と同窓会には出られないと思っていたのに、出席できてうれしいと、涙ぐんでおられました。しかし第二回の時には、彼女の姿が見えませんでした。



特別インタビュー
城東時代は・音体・ひとすじでした

城東16回 瀬戸内 美八さん
せとうち・みや 女優。本名は桑内瑠美子。


 城東高校には2年まで在籍、宝塚歌劇団に進む。スケールの大きなダンスと声量豊かな歌で定評があり、月組のトップを務める。現在は徳島市在住。ダンススタジオ主宰のほか、全国各地のイベントで活躍中。

–-瀬戸内さんは16回生ですね。

瀬戸内  はい昭和37年入学です。でもご承知のように、高校2年で宝塚に入ったので、正式には卒業していません。だから永らく卒業生名簿に名前がありませんでした。でも今はちゃんとありますよ。ついこの間も徳島の方では同窓会があって、私も参加しました。皆さん、素敵に年を取られて…。楽しかったですよ。

–-では、その宝塚入学前後のことをお話していただけますか。

瀬戸内  これは知る人ぞ知る話しでして、私は初めから宝塚を目ざしていたわけではなく、全く偶然のきっかけなんです。高校2年のお正月に、大麻ハン(大麻比古神社)でおみくじを引いたのです。そうしたらその中に「あなたは今年、芸能界に入るといいでしょう」というようなことが書いてあったの。

 それから家に帰って徳島新聞を見たら、宝塚の入学募集の告知が出てたの、これはもう神様のお引き合わせ、ということで、怖いもの知らずで受験したら、たいへんいい結果が出た、ということなんです。

 ただ私がこんな風に宝塚に入ったという話をすると、宝塚に入るのは案外やさしいんだ、と思われるかも知れませんが、それは違います。今や入学の難しさは東のT大、西の宝塚といわれるぐらいですから、宝塚にかぎらず今の芸能界、ミュージカル関係では、今、通用しなければダメだという考えが強いようです。幸いにも、といいますか、私が受験したころの宝塚では、その人の才能、可能性、雰囲気といったものを、じっくりと見てくれて大事にしてくれたと思います。ただ入学してからは、それはそれはつらかった。一年間ぐらいは毎日泣いてましたよ。

–-城東時代はいかがでしたか。

瀬戸内  私は音体部に入ってました。これは結果として、宝塚入団にも入団後もたいへん役に立ちました。

 とにかく高校の2年間はこの音体ひとすじ、当時は城東の音体部といえば県内だけでなく、県外でもその名は知られてましたでしょ。

 宝塚での歌とか踊り、それもかなり長い時間それを続ける、というのは、結局体力勝負なんですね。これにはこの音体時代の練習がとても良かったと思います。 

 私、けっこう根性もありましたよ。

 実家が石井なんですが、駅までかなり距離があって、そこまでは自転車で行きますが、これもかなり体力のいることでしたし、当時の練習の仕方も今とは違っていましたよね。今の運動選手は、練習中にも、練習後も充分に水分の補給をしますけど、私達は練習後、熱いお茶をゆのみに半分というような。でも私には、これはこれで良かったと思ってます。

 今は新体操というんですか、城東高校はどうなんでしょうか。

 友達にしても、クラスメートはクラスメートでなつかしいのですが、この音体部の仲間というのはやはり格別ですね。

–-今は徳島にお住まいですね。

瀬戸内  はい、宝塚に20年いまして、退団した後一年ほどアメリカに行って、帰って来てからは徳島です。ジャズダンスが主のスタジオですが、一昨年に末広の倉庫街に引っ越しました。

–-今の城東高校について。

瀬戸内  私のスタジオにも中学生の女の子がレッスンに来ますが、高校の志望を何げなく聞いてみると、どうもI高が多いんですね、どうかもっともっと魅力的な学校になってほしいですね。

 それから、おしまいになってしまいましたが、梅本先生のことです。

 当時、音体部の顧問の先生で、在学中はもちろん、宝塚入学の際にもたいへんお世話になりました。ここであらためてお礼をいいたいと思います。



恩師 先生

なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況を、みなさんにお伝えします。
『行成先生の思い出』

徳女40回 榎本 佐代子

 徳女に赴任されて始めて私達の歴史の先生として教壇に立たれた行成先生黒縁のめがねの奥に優しい目があり、きりっとした口もと、しゃべると白い歯が行儀よく並んで意志の強さを感じさせる好青年であった。昭和十五年だったと思う。当時日支事変が深みに入りアメリカやイギリスとの間に不穏な空気が濃くなりつつあった中での東洋史の講義であったが実にさわやかで真っすぐで温か味があふれていた。私達は時間が経つのも忘れて二千年以上も前の秦の始皇帝の中国に引きつけられ夕日に映える万里の長城に思いをはせたものである。驚いた事に私が入部していたバレー部に担当として行成先生が来られた。決してお上手ではなかった。ポーンポーンと飛ばすだけで私達はポンちゃんとあだ名をつけてしまった程であったがその熱意とひたむきさは何時の間にかチームをひとつにまとめ活気づけていった。

 あれから五十年以上の歳月が過ぎ、先生は城東高校の校長に就任された時期もあり、先生の影響を受けて巣立った生徒は数限りなくいると思う。戦災で徳島が丸坊主になった時も、敗戦の後の空しさと不安の中でも常に私達を支え力づけてくれた根性とエネルギーは先生から教わったものが少なくなかったような気がしている。



『楽しい想い出ありがとう』

大西 正


 三七年におよぶ教員生活を終え、もう二年が過ぎてしまいました。終ってしまえば本当にあっという間の短いような気がします。

 そのうち城東高では昭和三五年四月から四一年三月まで心から楽しく充実した日々を過ごすことが出来たと思っています。当時のことを少しづつ想い出してみますと三五年はすべて旧校舎の木造二階で校門は北側にありました。とにかく校舎が古いものですから二階で少しでも騒ぐと一階の天井がミシミシ大変なものでした。私が担任していた十四Hが校長室の真上にあり元気な生徒が多かったのでよく校長室に呼ばれ天井からゴミが降ってくるのでどうにかして欲しいといわれたものです。当時の校長は岡淳先生でとても温厚なお人柄で私が唯一尊敬できる校長であっただけに余計に恐縮しました。

 そのうち校舎の改築が始まり当時のグランドに現在の鉄筋校舎が少しづつ建っていったものですから新旧の両校舎で敷地内がいっぱいで、ついにはグランドがなくなるということが起こりました。それで体育の授業は二時間続きとして西ノ丸、ろう学校、さらには新校舎屋上などと不便をきわめ生徒の皆さんには不自由を強いて申し訳なく思っています。

 城東高校での忘れられない事件が一つあります。ある生徒四~五人が大神子でヤクザ屋さんの経営するボートを沈めてしまったのです。当の生徒の一人が私にヤクザ屋さんと話をして解決してほしいと言ってきました。私にはその筋の知り合いがあるわけなどなく困ってしまいましたが、生徒がそれ以上に困っているのだからと引き受けてしまいました。私の宿直の夜当のヤクザ屋が職員室にやってきました。相手方の要求をききそれが正当な金額であれば支払うことを伝え、それが正当か否かを警察に判断してもらうと電話をとろうとした瞬間この話しはなかったことにしてくれと言ってすっとんで帰りました。あの時の愉快であったこと。時効となった今も思い出します。



近況・雑感  『曽つて私も乙女ざかり』

徳女・併中2回 後藤 登志子

 毎朝、校門で後を振り返る。上級生が来たら端へよけて、いっせいに「おはようございます」と最敬礼、上級生はスーッと通り過ぎる。二年になったら、上級生風を吹かそうと楽しみにしていたものの新入生はなく、私たちは四年間最下級生であった。それを思いおこすと、返す返すも口惜しいとS子はぼやく。私にはその様な思いはかけらもない。お堀端を右に折れて校門までひた走る。茶色いリボンをゆらめかせた制服姿は一人も見当たらない。何しろ滑り込みの常習であったから。

 英語授業の時、岡田先生が学友の米人男性を招かれた。「皆さんの好きなスポーツは何ですか?」ナマの英語に楽しい緊張感で耳を傾ける。バスケット、バレー、フットボール、威勢よく手をあげたのは私一人。Ahaとゲスト先生の笑顔。テニス…ベースボールと続く。ン?私の好きなスポーツはベースボール=ソフトボールなのだ。ソフトとフット。聞き違い、早とちり。全身が火照り消え入りたい思いで、見たこともないフットボールを大好きなスポーツだと自分に言いきかせていた。

 下校は、いつもS子と一緒であった。大道へさしかかると、やはり下校途中の徳中生とすれ違う。二人共ツンと横をむいてやり過ごす。そんな彼等とも共学のおかげで、後に同窓生となる。上級生に憧れた徳女時代、淡い恋心も知った高校の頃。三十数年を経て青山のお寿司屋に集まった。徳女併中二、城南高校三期、徳中ブービーの人達。昔日の少女の面影、はにかんだような青年時代の笑顔が浮かび、打ちとけた団らんのひととき。

 五十年来の悪友、写真館の当主S子。タンゴの名手T子医師。等々。枚挙にいとまがないが、今、熟女63歳。それぞれに煌めいて女ざかり。



『同窓会雑感』

城東12回 小野 南海子

 私は五年前の四月に主人の転勤に伴い東京に引越して参りました。たまたま幼友達(城東出身)の御主人が幹事年であった為、是非出席をとの依頼を契機とし連続四回出席して参りました。毎年幹事の方々が趣向をこらして「時の人」を見つけてこられ楽しく有意義なひとときを過ごさせて頂いてます。この様なひとときを過ごせるのも幹事の方々の御努力の賜と感謝している次第でございます。

 参加して感じます事は、若い人の参加者が少ない事です。私も若い頃に幾度か御案内を受けてましたが、卒業三十周年の同期の同窓会に出席した以外、参加した記憶がございません。

 日本国内、海外にも各県人会、日本人会が結成されている事より、日本人の心の中に「一つ釜の御飯を食べた仲」という表現に象徴されますように、日本人は“群の文化”を抜きにしては生きられない民族でございまして西欧的な個人主義や、個人と個人が自由に競い合う社会には馴み難く、居心地が悪いと本音で思い続けているところが年齢の如何を問わずあるのではないかと思われます。

 城東高校卒業生という利害得失を超越した絆に結ばれた同窓会を中高年中心の集いより一層発展させる為には、ヤングパワーの参加が不可欠だと思われます。若い人が中心となった企画、若い人が参加し易い環境作り等工夫をこらし一層楽しい会として頂ける様に期待しています。

 私も今後年をとってから新しく作るのが難しい友達を求め同窓会に積極的に出席し、仲間作りに励みたいと思います。



『同窓会私感』

城東20回 木村 明子

 私が、東京支部の渭山同窓会に出席させていただくようになったのは、平成五年からである。

 毎年案内状はいただいていたが、それほど関心も持てなかった。子供が小さかったこともあるが、それ以上に、自分の高校時代を懐かしむことがほとんどなかったからである。しかし、その年は企画に惹かれて友人を誘ってみた。他に知った人はいなかったが、とても良い雰囲気で楽しく、帰り際には、『来年も来ようね』と、しっかり約束ができてしまっていた。今年の六月で四回目になったが、二人とも皆勤である。

 どうして、毎年出席したくなったのだろう。徳島より来て下さった校長先生のお話で、現在の城東高校の様子が分かり、ゲストの方々の講演やパフォーマンスで、卒業生が多方面で活躍されているのを知ることができる。時には、城東高校が外部の人達にとってどういう存在であるのか(あったのか)実感することもある。ゲームに歓声をあげ、徳女、城東の校歌が流れる頃には『また来年ね』の気分になっているのである。

 会場にいると、徳島を愛し、母校を誇りに思っている空気に包まれる。それはとても心地良い。同窓会開催のために尽力されている役員、幹事の方々のご苦労も垣間見える。多分、そういた諸々の思いに呼ばれてしまうのだろう。

 三十年前、城東生であることを楽しむのは下手だったが、今は年一回、城東生であったことを上手に楽しませてもらっている。



『・総会・も使いようで…』

城東27回 竹中 章

 先だっての新聞のスポーツ欄を見ていると、城東高校がラグビーの全国大会に三十数年ぶりに出場するという記事が載っていました。

 全国大会に関する記事の中で、ほんの一、二行しか書かれていませんでしたが、転勤により東京勤務でこちらの生活が長くなり、徳島の情報が乏しいなかで、久しぶりに母校の名前を見つけることができ、うれしい気持ちになりました。

 いずれにしても画期的なできごとではなかったでしょうか。

 この記事が会報に掲載されるころには、既に全国大会も終っていますがよい結果を期待しています。

 今年(平成八年)の東京支部での同窓会で、岩田忠男校長先生(実は高校二年生当時の担任でした。当時はまだお若く、ラグビーボールを持って生徒と一緒に走っておられました。)が言われていましたが、硬式野球部が誕生したとのこと。私が高校生当時は、狭い運動場で、サッカー、ソフトボール、陸上、軟式野球等が練習日の割当てを決て練習をしていたように記憶しています。私はテニス部だったので、毎日のように練習していましたが、テニスコートの廻りにフェンスがなかったためサッカーボールとか野球のボールがよく飛んできたものです。今は広いグランドで練習もできることですし、これからの健闘を期待しています。

 ところで卒業生の皆さん、東京支部の総会に出席すれば、わざわざ自分たちで同窓会を企画しなくても、労せずして仲間が集ることができます。一応、総会とはなっていますがセレモニーはわずかで、仲間同士の雑談にはもってこいの機会だと思います。

誘い合って参加してはいかがでしょうか。

創刊3号


平成7年度東京支部活動報告

城東渭山同窓会東京支部・支部長

城東16回 竹口省三

 去る、2月17日今年度東京支部総会幹事にあたる城東十回卒業生と支部役員の打合せ会が雪の降りしきる中、会場の下見を兼ねて如水会館にて行われ、例年の如く東京支部の新年が始まりました。こうして、6月の総会まで幹事のい方々の情熱と努力による準備が続きます。

 昨年の東京支部総会は、徳島から本部同窓会の鹿子会長、母校から安藝校長をはじめ8名の来賓を迎えて例年どおり6月の第二日曜日、6月11日に池袋サンシャイン・アカデミーホールで開催されました。

 支部の事務手続きに続いて、鹿子会長の祝辞、安藝校長の母校の現状を含むご挨拶を頂いたあと、昨年の向田邦子賞を受賞された9回卒業の鎌田敏夫氏から城東時代の仲間たちとの様々な思い出や現在の同級生との交流について、また『29才のクリスマス』に代表される若い感性について心に残るお話がありました。

 鎌田さんのスピーチのあと全日本のトップダンサーである城東29回卒業の花岡浩司・律子夫婦による華やかなダンスタイムとなりました。

 花岡さんの指導によるワンポイントレッスンに有志が興じたあと、ご夫婦によるデモンストレーションが行われ、会場はまるでヨーロッパの宮廷の舞踊会の雰囲気となり、その余韻が会の後まで残っていました。また律子さんの胸を7回卒業の笹川寛氏の提供による豪華な宝飾品が飾り女性会員の目を輝かせていました。

 このあと当日参加中の最高齢、徳女30回の卒業生と最も若い城東40回の卒業生に対する爆笑のインタビューがおこなわれて、会は和やかに進行してゆきました。なにしろ進行はNHKのチーフアナウンサーの影山武人氏(城東13回卒業)で、アルコールのグラス片手に会を盛り上げて頂きました。

 最後に、全員の徳女と城東の校歌を斉唱して7年度の総会を終え、それぞれの仲間と共に三々五々池袋の街に消えていきました。

 今年も素晴らしい総会となるよう皆様のご参加をお待ちしております。



城東高校近況

校長 安藝 武

東京支部会報「藍」3号の発行、心からお祝い申し上げます。城東渭山同窓会東京支部会員の皆様の心のつながりと母校のつながりとしての会報が毎年発行されることを心強く感じるとともに、感謝申し上げます。

 母校城東高校は明治35年、徳島県立高等女学校として創立され、その後、学制改革により城東高校に受け継がれ、本年で95年の長い歴史を積み重ねていることになります。また、徳女としての卒業回数は46回、城東高校としての卒業回数は本年度で47回を迎えました。

 現在の生徒数は1年(13クラス)519名、2年(12クラス)479名、3年(11クラス)440名、計1,438名(男子686名、女子752名)教職員は87名で教育活動を展開しております。女子が70名ほど多く、徳女の女学校としての面影をまだ残しております。しかし、この生徒数を受け入れるには校地がやや狭く、生徒には苦労をかけているのですが、それにも負けず、学業にスポーツによく励んでおります。

昨年度卒業生の入試状況は、国公立合格者数は延べ130名、私立大学の合格者数は約280名の合格者数であり、よく健闘しております。また、就職者数は11名おりました。本年度のセンター試験出願者は321名、就職者は8名で、健闘してくれるものと確信しております。

 クラブ活動につきましては、全国大会へバドミントン・空手・登山・弓道部が、四国大会へは全国大会出場の部とソフトボール・テニス・水泳部が出場しております。その他のクラブにつきましても県レベルでりっぱな成績を残し、よく活躍しております。また、来春より希望の強かった軟式野球部が創設できることになりました。ネックとなっておりました練習用グランドが関係諸機関の協力のもと吉野川河川敷に確保でき、同窓会、PTAの賛同のもと部活動としての展開が可能となりました。

 今後、大切に育てていこうと考えております。

 施設設備につきましては、身体に障害を持った生徒が入学したため、現在までその生徒が生活し易いように校舎内外を改善してきましたが、本年は校地北側の特別館にエレベーター設置工事が進行中です。その関係より、生徒同志の助け合いの精神も徐々に向上してきており、更に、教職員と生徒の一致協力のもと、人間的でふれ合いの濃い、また学習し易い環境つくりに向けて努力できる体制が出来あがろうとしております。

 新教育課程も2年目となり、高校教育は大きな変換期にさしかかっております。この時期にこそ、徳女から培われた古き良き伝統を基礎として新しい環境・教育の場をつくりあげなければなりません。城東高校によせる母校愛を同窓生と共に育んでいただくとともに、今後とも母校に対してのご協力、ご支援をお願い申し上げます。



本部同窓会の近況

城東渭山同窓会長
城東18回  鹿子恭志

 東京支部の盛況を心からお慶び申し上げますとともに、支部会報「藍」の発行をお祝い申し上げます。

 同窓会会員は、今春の第47回卒業生の438名を迎えて、28,454名にのぼり、県下有数の同窓会を有します。その同窓会の運営は、次の役員の方々と各卒業回数毎に5名ほどの理事を設け当たっております。

◇ 平成7・8年度役員
副会長 妹尾 房子(徳女42回)
     中川 裕子(徳女42回)
     仁田 映子(城東17回)
     平田 雅男(城東18回)
     五藤 康人(城東27回)
会計 石橋西恵子(徳女41回)
     浜松満里子(徳女47回)
     森 靖男(城東13回)
     松村 邦江(城東23回)
会計監事 矢田 慶子(徳女39回)
     西 弘子(城東31回)

 更に、歴代の会長、学校長には顧問として助言指導をいただき、鳴門、阿南支部長も設け運営に当たっております。同窓会の事業につきまして、主な事業のみを紹介させていただきます。

 4月29日第34回定例総会の開催。この総会の参加者は約200名、恩師の先生方が27名、更に徳女29回卒以前の方が22名参加下さり会を盛り上げて下さいました。

 9月 城東祭 体育祭に於て各学年で優勝したクラスに同窓会賞として“金長まんじゅう”を賞品として送るとともに、同窓会長の万歳三唱で体育祭を締めくくらせていただいております。

 2月 賞状授与式 卒業式前日城東渭山同窓会賞として成績優秀者・特別活動功労者各5名に賞状と賞品を授与しております。

 3月 卒業証書授与式 卒業の祝辞と同窓会入会への歓迎の意を述べさせていただいております。

 同窓会は同窓生の同意としてのつながりをお世話させていただくとともに、学校行事などにも深く関わることがあります。本年度は4月28日の創立記念日に城東7回卒、万福寺住職の福島誠浄さんに“出会いとよろこび”という演題で講演を在校生対象にしていただき、また、2月17日にはPTA保護者の方に城東7回卒、藍里病院長の石村栄作先生から、“高校生の心理状態と親子の関わり”という演題での研修会をお世話していただき、好評をいただきました。東京支部の会員の方も機会がありましたら母校と後輩のために何かお世話いただければ幸いです。

 また、母校城東高校には創立80周年記念事業の一環として同窓会館が建設されています。役員の話合いの場として、各回の同窓会の会場として利用されています。母校で同窓会を計画されるときは、同窓会館内に事務局(城東17回卒、増田富佐江さん 火・木)がありますので、連絡(0886-26-0055)いただければお世話させていただきます。

 今回は、徳島の同窓会の近況を主に説明させていただきました。“母校は心の故郷”“40を越えると、高校時代の仲間がやけに懐かしくなる”といわれる方が多くなっています。帰郷なさった折は、同窓会に連絡していただき、昔の仲間と母校で歓談していただくのも一興かと存じます。



『想い出』

徳女45回 上野康子

私達徳女45回生の学生時代は正に昭和の激動期でした。

昭和20年の春、私達は3年生に進級しましたが、この頃になると他府県より戦災等で転入する生徒も目に付くようになりました。

忘れもしない7月3日は夜の大空襲で、伝統ある徳女も、一夜にして灰燼に帰し大勢の友人も罹災したため相互の連絡も暫くの間、途絶えてしまいました。

空襲当時の想い出については、喜瀬さんが、次の様に語って居ます。彼女の親友である細川さんとは、空襲前夜、何時もの様に、「又明日ね」と別れ別れに家路についたのに、其の夜の焼夷弾で彼女は、片手片足を失う、重傷を負った由で、二度と再び、私達の前に姿を現わしませんでした。この事は忘れられない想い出になって居ます。

其の後、焼け残った富田小学校で不自由な二部式授業が再開されましたが、交通の便もなく、遠くへ疎開した人もかなり居てこれでは充分な勉強も出来ないとの事から先生と生徒が、力を合わせ、校舎の一日も早い復興を目ざし募金活動を始めました。先生方の御指導の元に芝居、踊り、歌、等の劇団を編成して県内各地を巡回興業しました。これを成功させる為には、先生方、卒業生の方々の御努力は並大抵ではなかったと思います。

皆の努力の甲斐もあって思いの外早く、最初の校舎が出来上がった時には、ようやく母校に戻れたと嬉しさがこみあげて来ました。急造の校舎ではありましたが、その教室で何時もお腹がすいて居ても、友と笑い勉強する意欲が湧いて来ました。其の後の学生生活も決して平坦な道程ではありませんでしたが、皆無事、卒業式を迎える事が出来、感慨無量でした。

此の度の原稿依頼により、忘れかけて居た学生生活を思い出し、当時と比べ今の生活に喜びと安堵を感じて居ます。


『雑感』

徳女46回 沢久枝

昭和19年、敗戦の前年に徳女―徳島高等女学校へ入学した私たち46回生は、セーラー服にもんぺ姿で入学試験を受けた。テストは全教科口答試験であった。極端な物資不足の中で、試験用紙の紙もなかったのだろうか。古い明治の洋館建築の校舎に通ったのは、わずかに1年と2ヶ月であった。

20年7月4日未明の空襲で校舎は消失し、富田小学校での仮住い、一棟の校舎を市女と共同で使った。授業は午前か午後のみ、金曜日と土曜日は交代で一日授業であった。立江寺に淑徳寮が出来たのもその頃であった。焼跡に木造校舎が一棟、また一棟と建てられ、私たちは富田小学校から、長い行列を作ってそれぞれ自分の机と椅子を持って新しい校舎に帰ってきた。

卒業式は、その後建てられた体育館であった。その時校名は徳島女子高等学校と変わっていた。翌年、男女共学となり、校名は城東高等学校と変った。 私は昭和24年に徳女を卒業し、翌25年に城東高校を卒業しました。私たちが在校した6年間は、戦争、敗戦、そして新しい民主々義の教育へと、めまぐるしく変化した時代であった。

それから、やがて50年、昨年は敗戦50周年を迎え各地でさまざまな行事が行われ、この50年をあらためて問い直した年であった。私たちの年代を「軍国主義教育で純粋教養された世代」と叫ぶそうだが、まさにその通りで、生れた年に満州事変が始まり、幼稚園の記念写真には「ナンキンカンラクバンザイ」と刷り込まれ、4年生の時小学校から国民学校へと名称が変り、戦時下の少国民としての軍国教育が徹底的に行われた。私はテレビで見る隣国の子どもたちの赤いスカーフや一糸乱れぬマスゲームに自分の小学生時代を重ねてしまうのである。

今、地域の歴史を学び、この地の市史編さんにかかわって20年、私はこの町の歴史を通して、日本の近代の歩みを学んでいる。ぬりつぶされ、教えられなかった歴史、それは現在もなお偽政治により隠されようとしている。私は今あらためて自分の生きてきた60年を見つめなおすために、隣国とのかかわりの中で近代の日本の歴史を学びたいと考えている。

ふるさとを思い、母校を憶う時このような激動の過ぎことであったにもかかわらず、なぜかふるさとの風景は明るい色彩にあふれ、穏やかな風が吹いているのである。



『同窓会に寄せて』

城東16回 佐野和夫

“同窓会”何と云う響きだろうか?この言葉の持つ意味は、広範囲に及ぶ。青春、勉強、仲間、部活、その他もろもろの事。いずれもが純粋な気持ちの頃の行為だから、甘酸っぱい想い出で胸が一杯になる。人は、ノスタルジックな奴だと云うが、でもあの頃の仲間は今、会っても何のためらいもなく、地位も関係なく、なあ、お前(あなた)と呼びあえるのが一番いい。これは男と女の違いは、少々有るかもわかりませんが?だから同窓会を世話したくなるのです。実際のところ、世話人を降板したい気持ちは山々なんですが、今度二度目の登板で、往復葉書の返事の中に、御主人からのお便りで、家内が生きておれば、喜んで出席した事でしょう。もう少し早く開いて頂けたら良かったのにとの御返事には、胸がつまされました。同窓会に、出席された方々は、非常に生活に余裕があり悩み事の少ない同窓生だと云う証しでもあります。会に出席している時間は、人生の問題や、子供、社会などの悩みを忘れる事が出来る処方箋なしの特効薬ではないのかな。でも会が終って、2~3日は何かしら淋しい気がしますが、現実とのギャップが埋めきれない為なんでしょうか。人生、一度きりの人生の中で一番多勢な3年間の仲間は、やはり、貴重な存在です。これからも体力、気力、知力(?)の続く限り同窓会には出席しようと思います。東京方面からの出席の方々本当に有難う御座居ました。3年後にまた、お会いしましょう。



『清瀬の街で』

城東20回 長野美保子

十郎兵衛屋敷の近くで生れ、城東卒業(1969年3月)までの18年間を徳島で過ごした、すだちとお好み焼きのファンです。城東から徳島駅に歩いていく途中、よくクラスメイトと「たこ八」で80円のお好み焼きを食べたことが懐かしい。徳島以外の生活が27年になりますが、朝のニュースで眉山や吉野川が写されると釘づけになってしまう、故郷って不思議なものですね。

「流れ流れて東京へ」ではないが、縁あって東京都清瀬市という北多摩の人口67000人の小さな街で生活を始めて丸9年になろうとしている。東京都立広尾高等看護学園の学生の時に西武池袋線の清瀬駅で降りて、らい病の施設で有名な余生園(東村山市)を訪問したのが、清瀬との初めての関わり、学院が渋谷区の都立広尾病院の敷地内にあったため、「清瀬はずんぶん田舎だな」と思ったものです。

その後、子育てをしながら少し看護婦の仕事をしていたところ、市議選の挑戦の話をいただいて5年前初当選。昨年の4月の統一地方選に再挑戦し、二期目を何とかクリアーしたところです。

かつては社会党に属していましたが、今は離党し無所属、市民派。住民の環境問題、ごみ問題、女性たちの権利をまもる政策実現、障害者の生活権の確保、子ども達の教育問題等々……、清瀬の街づくりの中に弱い立場の人々の意見をどの様に反映させていくべきか格闘中。政治をおじさん達に任せるのでなく、生活感覚を持った女性・男性が政治に関わり、真に豊かな社会を築いていきたいと日々考えている。

ともすれば行政の代弁者になりがちな議員という仕事を、何時も住民の立場にたって住民の代表としての役割をきちんと果していくつもりです。


『近況』

城東25回 岡崎光芳

城東高校の卒業生も平成7年度で47回を迎えると聞いて、私が卒業して22年も過ぎたかと感慨ひとしおです。

高校入学試験日の寒かったこと、1年、2年、3年のそれぞれの友達の顔や出来事、先生の講義の様子など3年間の高校生活はあっと言うまでしたが、今でも鮮明な記憶として残っています。

城東高校の生徒だった1970年代初めは学生運動・フォークソング全盛時代でした。最近のリバイバルで、懐かしい映像や音楽に接することが多く改めて楽しかった高校生活を思い出します。

現在の仕事は、発電所を監視・制御する計算機システムの開発・設計です。コンピュータを勉強したいと思ったのは、確か高校2年の担任・阿部健先生の進路指導で大学に新しい学問として「情報工学」というのができるという話をお聞きしてからだったと思います。

発電所の仕事をしているおかげで日本各地や、時には海外に出張する機会も多いのですが、やはりふるさとの空気や食べ物は特別です。父母はまだ徳島で生活しているので、ほとんど毎年帰省しています。帰省中は、冷たく甘い吉野川の水の味を味わい、東京の雑踏から離れることで十分に心のリフレッシュをしています。



『徳島までの距離』

城東26回 小泉弘子

現在、私は主人と長男(11)、次男(9)、の4人家族で、横浜に住んでいます。主人とは、城東高校2年生の時の同級ということもあって、この度、初めて2人で同級会に出席いたしました。大先輩方の中、戸惑いもありましたが、色々な分野でご活躍されているお話に触れて、心強い気持ちで帰ることができました。

結婚と同時に、徳島を離れて15年、年に数回は帰郷したり、両親が上京したりして、お互いの距離は、変わらないつもりでいました。でも最近になって時々、感じるのは、子供達はともかく、私達夫婦が、徳島の方を、あまり振り返らなくなっているということです。今年の夏には、都内への引越しが決っていますが、これでまた少し、故郷が遠くなるのでしょうか。だからといって、淋しさや不安があるという訳ではありません。どういう場所で生活していても、それぞれ目的や生きがいなどがあるもので、それに向かって、「喜怒哀楽」を繰返しているのではないでしょうか。

徳島に行く時の、飛行機の窓から見下ろしていると、少しずつ様子は変っているものの、見慣れた景色が広がり迫ってきます。空港に降りると、穏やかな空気の中で、体や心の力が抜けてほっとする瞬間があります。また、羽田空港に着く時には、違った意味で、ほっとして、体中に新しい力が湧いてくるような気がします。

この二つの感覚は、15年前から何度も繰返されているもので、私は結構、気に入っています。これらを味わいたいが為に、往復しているのかもしれません。

徳島の山や海は、私達家族をいつも、大きく手を広げて受け止めてくれます。もちろん、自然ばかりでなく、両親や兄弟姉妹、旧友など、徳島の人達も、そうです。



恩師 先生
なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況をお伝えいただきました。
『気ままな生活』

山川邦直

城東高校関東支部の皆さんお元気でしょうか。

私も60才で高校の教員を退職してから10年になります。退職してから、3年は郷土文化会館に勤め、1年休んでから5年間、阿南高専の数学の非常勤講師を勤めましたが、70歳を迎えて毎日が日曜日の生活に入りました。

毎日、起きながら、今日は何をしようかな、というような気ままな日々ですが、自分の気の向くままね生きて行こうと思っています。

今月も、東北の蔵王の樹氷を写したくなって2月13日、14日と蔵王温泉に泊りました。丁度13日の夜に雨が降って樹氷が消え、目的を果せませんでしたが、スキーヤーに囲まれて、昔、楽しんだスキーをすべりたいな、と思いました。

退職してから、最初にハワイ、2回目はイギリス、イタリア、ドイツ、スイス、フランス、3回目はもう一度、ドイツ、スイス、フランスとカナダ、5回目は北欧4ヶ国、6回目はイタリアで12日間、昨年はベルリン、プラハ、ウィーン、プタペストと回って参りました。

永い歴史を持ったヨーロッパには無限の魅力があります。いつまで生きれるか分かりませんが、歩ける間はどこかで歩きたいという気持ちです。

皆様の殆どは、旅に行きたくとも時間がない、仕事におわれた毎日を送っていられると思いますが、いつかは時間を見つけて、世界を見てほしいと思います。日本もいいけれど、外から見れば別の面がある。自分の日常の生活にも、別な生き方があるかも分からない。とえらそうなことを思っています。

昔、青年時代に愛読した夏目漱石の理想は「即天去私」

私などまだまだ、そこまでは近づけませんが、出来るだけ、それに近い毎日を送って見たいと思っています。

生きていなければ、果せませんので、毎月1回、病院に通い、薬を貰って、生きています。

皆さんもお元気で、近況をお知らせ下さい。妾言多謝。失礼します。


ひと口インタビュー

蔭山武人さん 城東13回
パワー全開! 阿波踊り
かげやま・たけと NHKチーフ・アナウンサー。
I.C.U. 卒業。正統派の語り口と甘いテナーの音声には定評がある。

寂聴師、鎌田敏夫さんに続いて3回目のインタビューは、NHKアナウンサーの蔭山さん。誌面の関係でほんの一部ですが、お伝えしたいとおもいます。

―― まずプロフィールから

蔭山 生れは昭和18年、10月22日、天秤座。血液型A、ひつじ年。城東高校卒業は37年、第13回生です。

生まれた所は、実は今の東京都大田区。父の実家というか本籍が美馬郡の穴吹でしたから、山梨に疎開した後、戦後4歳ぐらいで徳島に移りました。住まいは徳島市内で、新町幼稚園、付属小・中、そして城東高校です。

―― 高校生活は

蔭山 川人先生が顧問の合唱部にいました。レベルはかなり高かったと思いますよ。今でもカラオケは大好きです。生徒会の役員もしていました。当時ラグビー部が強くて、誇らしかったのですが、部活動費の分配会議などでは、かなりプレッシャーもありました。

―― それから大学へ

蔭山 私は数学が全くダメ。3年時、幾何のテストで得点4というのもありました。浜先生、あのパチンコの好きだった浜先生の授業です。ただ英語は好きでしたし、得意の課目でしたからこの方向に進みたい、外交官になるのも夢でしたから。

進学したのはICU、国際キリスト教大学です。徳島県からは確か二人目だと思います。英語では柏原先生、宮岡先生、このお二人の授業が印象的です。

―― ズバリ、高校時代の思い出といえば

蔭山 やはり“阿波踊り”です。小さいころから踊っていましたから、あのリズムは体にしみ込んでいますね。高校時代は特に運動だと思ってました。踊って帰ったあと、ざるそば5枚、田舎風のたっぷり盛ったやつです。それを、これはもう時効ですが、ビールを軽く飲みながら、ペロッと平らげる。爽快な思い出です。

―― 今、徳島については

蔭山 NHKに入局して最初が高松局。西日本を中心に各地で仕事をしました。

徳島時代は、田舎での生活が、都会のそれに比べて損をしているような、素朴に都会にあこがれていました。その土地土地での仕事を通して、日本にはいっぱい田舎がある。その地方都市、そして放送局は地域の公告塔、情報発信基地であり、地域とともにある。東京や大阪などの中央に対してこの地方をどう盛り立てるか、そんなことを考えながら、それに何とか役立ちたいと思い続けていました。

徳島にも4年間ほど勤務しまいた。

北九州局時代「明日を語ろう」という番組を企画しました。これは製鐡産業が衰退する中、この町をどうすればいいか、ということを市民のみなさんといしょに考える、という番組でした。

アメリカのピッツバーグという、製鐡の町として有名な都市があり、この町の衰退と再生に学ぼう、というのが最終的なメッセージで、市民のみなさんにも大変好評で、私にも思いで深い企画でした。

徳島に対する思いも、随分変化しました。徳島には徳島の良さがあるということです。

また徳島で、みんなに会えるのを楽しみにしています。 (渋谷・NHKにて)


創刊2号


平成6年の活動について

城東渭山同窓会東京支部副支部長
城東16回 竹口 省三

 東京支部の会員の皆様は卒業年次ごとに、クラスごとに折に触れ集まって楽しい時間を過ごされているようですが、支部全体としての最大かつ唯一の行事は、例年6月の第二日曜日に開催される東京支部総会とそれに続く親睦会で昨年は、6月12日に徳島から母校の疋田校長先生を始め5名の来賓を迎えて、千代田区平河町の『四川飯店』にて行われました。太田支部長の挨拶に続いて、校長先生や同窓会本部役員のご挨拶を頂いたあと、会計報告や事務連絡が行われ支部総会を終了し会食に移行しました。

 あちこちで歓談の輪ができ、昔ばなしに笑いが広がり、友の消息に思いを馳せる頃、今回の幹事学年城東第8回卒業生の豊田代表幹事のうち鳴らす阿波踊りの鐘のおはやしに乗って、にぎやかにビンゴ大会となり、故郷徳島の同窓生から送られた「わかめ」や「すだち」を始めとする豪華景品に、リーチ、ビンゴと大騒ぎのうちに親睦会も時間が過ぎて、再会を約してそれぞれの学年や、お目当ての人との二次会へと流れて、支部総会は散会となりました。

 現在、関東地区に住み東京支部会員として登録している会員数は約2,000名です。毎年新しく城東高校を卒業して、また転居で関東地区に居住する同窓生はかなりの数に上る筈ですが十分に把握できておりません。住居の移動の際や、未登録の会員をご存知の方は必ず支部事務局へ御連絡下さる様にお願い致します。

 別紙にてご案内のとおり、今年も6月11日に支部総会が開催されます。総会後の親睦会は、今年は特に楽しい企画が用意されています。今まで出席された事のないヤング、オールド会員のみなさん、ぜひ足をお運び下さい。



城東高校近況

教頭 真島 豪之

 平成6年度も学校週五日制の調査研究協力校として研究を続けました。第二土曜日は家庭学習日として、家庭での主体的学習が習慣化するように休業日としました。かなり学習への主体的取り組みができた人もいましたが、ゆっくりと過す人もいました。本来のねらいはゆっくりと過して自主的主体的な生活をすることにあると考えられますが、貴重な時間を有意義に過して欲しいものです。

 第四土曜日につきましては自主学習日として、課題をもって登校してくる生徒については、一年生は基礎学力養成のために自主学習を奨励しました。三年生については進路目標達成のために実力養成をめざし自主学習を奨励しました。かなり多くの生徒が登校して自主学習に励みました。二年生については、社会教育施設や文化施設を利用したり、伝統芸能鑑賞会やダンスフェスティバル(創作舞踊発表会)、郷土料理づくり、映画鑑賞会等生涯学習につながる活動を奨励しました。多くの生徒が登校して興味をもって活動しました。何かきっかけがあれば積極的に活動することがよくわかりましたが、そのきっかけを自主的主体的につくって活動していくようになれば一層効果があると思われます。

 つい先日516名もの卒業生を出しました。城東高校になって第46回ということで、前身である徳島県立高等女学校と卒業生の回数は肩を並べました。これからがいよいよ城東高校の発展期にはいっていくと思われます。同窓会の皆様方には大変お世話になって深く感謝いたしています。



『阪神大震災と私』

城東高校渭山同窓会副会長
城東18回 平田 雅男

 平成6年1月17日早朝5時46分、徳島市のマンションで太平の眠りを貪っていた小生は、ドーンといった衝撃音と大きな揺れで、否応なく眼を覚まさせられた。寝ぼけまなこで、扉の開いたタンスと書籍が落ちる本棚を必死になって押さえた。その時はまさかこんなに大きな被害をもたらした大地震であるとは思いもしなかったが、直ちに点けたTVによるとかなり大きい激震であることがわかった。ニュースによりどうも神戸の被害がかなり大きいという報道に、自分の顔色が変わるのが感じられた。神戸の女子大で教鞭をとる妻と一歳半の娘が現地にいるからである。すぐに神戸の妻に電話したが、全く通じない。火曜日のことであり、仕事を休むわけにもいかず後ろ髪を引かれる思いで出社した。その朝九時半頃ようやく電話連絡があった。受話器を取ると聞きなれた妻の声。

「家は半壊状態、家電製品も家財道具もみんな駄目だけど、娘も私も生きているから取り敢えずは安心してね。今、公衆電話からかけているけど私の後ろに大勢の人が居るから1分間だけしかしゃべれないのよ」との言葉。8ヵ月の身重で幼い娘を抱きつつ悲痛な面持ちで電話してきている様子がひしひしと伺われた。受話器の向こうから怒鳴り合うような大勢の声と救急車のサイレンの音がはっきりと聞こえ、被災現場の様子が容易に想像できた。その後4日間、被災者として須磨区でテント生活を強いられた家内と娘は、パジャマ姿で乾パンを大事そうに抱えて無事帰って来た。

 これが、何千年か何万年に一度あるかないかと言われ、5,400余名もの犠牲者を出した阪神大震災における小生の最初の体験である。その後1か月して後片付けのため被災地へ向かったが、完全に陥没した岸壁、折れ曲がった鉄道の線路、鉄筋向き出しに倒壊したビルなどを目の当たりにし、予想以上の被害の大きさに驚いたものであった。

 我々は普段何一つ不自由することのない生活に慣れ親しんでいるが、大自然の脅威の前には、かくも脆い存在であると言う事を身をもって体験した。今こそこの体験を生かし日頃から非常時への有効な対策を考慮しておかなければならないという事を痛感した。天災は忘れた頃にやってくる…。格言のもつ深い意味合いを実感した今回の震災であった。



特別インタビュー

『やはり、いい友達 面白い友達との思い出』

鎌田 敏夫さん 城東7回
かまた・としお 脚本家 早大政経卒

 時代を的確に切り取り、骨格のしっかりしたストーリーと、キャラクター作りには定評がある。最近の代表作には『金曜日の妻たち』『男女7人夏物語』『29歳のクリスマス』など。『29歳~』で芸術選奨文部大臣賞、向田邦子賞を受賞。

 創刊号は瀬戸内寂聴師でしたが、今回は、いつまでも若々しい感性でドラマを作り続けている鎌田敏夫さんにお話をうかがいました。楽しい思い出とエピソードの一部分ですがみなさんにお届けします。

―― 鎌田さんは31年卒業ですね

鎌田 そうですね。31年、第7回の卒業生になりますか。

―― さっそくですが、鎌田さんの城東高校時代のスクールライフ、思い出などを聞かせて

ください。

鎌田  特にクラブ活動などはしていませんでしたが、バカなこともけっこうしながら毎日楽しく過してましたね。

 面白い、いい友達がいっぱいいました。

 ぼくの実家というのが、徳島駅から学校へ行くちょうど途中にあったんです。駅構内の端のほう、鉄道病院があって、その向いくらいかな。だから友達連中は、学校の行き帰りに寄っていました。ぼくがいなくても家に上がり込む、というのもしょっちゅうでしたね。

 三年生になると、クラス分けというか、就職クラス、普通クラス、それに受験クラス、まあエリートのクラスというのですが、そういうのが突然できて、反対運動が起こったというか、起こしたのをおぼえています。結局、首謀者だった、ぼくともうひとり後で京大に行った矢部という男が、反対したことのケリをつけるという形で、受験クラスをやめたことをおぼえています。

 いろんなことがいっぱいあって、高校3年間は、楽しかったですね。

 ぼくたちのクラスは、男女の仲がよくて、休み時間もワイワイガヤガヤ。よく鳴門とか、八多の滝などに遠出もしました。昼休みに男女一緒にバレーボールなんかしていると、他のクラスの連中がうらやましそうに見てました。

 今でもこの友人たちとはつき合いがあります。東京に住んでいる連中とは、機会があれば飲んでいますが、話の中味は高校時代と変わらずバカげたことです。

 昔の友人たちと一緒に飲んでて、仕事中心の話に終始することが多いという話も聞くのですが、ぼくたちにはそういう話題は、ほとんどありませんね。

―― 今の仕事、脚本家への道というのは、学生時代から考えていたのですか

鎌田  いや、特にそんなふうに考えていたわけではありません。

 本当はサラリーマンになりたかった。サラリーマンにあこがれていたんです、あの頃は。普通の人が自由業にあこがれるのと同じようなものでしょうか。

 当時は就職難で、就職しなかったというか、できなかったというか。ただ、映画は好きでしたからよく見ていました。これは昔からで、中学、高校時代、徳島で見られる映画、特にアメリカ映画はほとんど見ています。この映画好きはあとで仕事に大変役立っています。

 とにかくブラブラしていても仕方がないので、シナリオの学校に通いました。

 その時、講師として来ていた作家の方に弟子入りしたのが、この世界に入るきっかけです。

 師匠は井出俊郎さんといいまして、映画の『青い山脈』の脚本家です。けっこう長くて6年間弟子でい続けました。

 その6年間に学んだことが、その後になって本当に役立ちました。ただし、シナリオの書き方なんてものは、一度も教わらなかった。

―― デビューはどんなふうでしたか

鎌田  ちょうど映画の人気にちょっとかげりが見え始めて、テレビがおもしろくなりかけたときでした。『飛び出せ青春』という青春シリーズです。テレビを見た友人が、おれたちの高校時代の方がもっと面白いなんて言ってたこともありましたけどね。

―― 最近の仕事に関するお話を少し

鎌田  昨年の秋から暮にかけて放映したドラマなんですが、『29歳のクリスマス』といいます。二人の女と男一人、この三人の友情関係を基本に、親子の問題や、友情、恋愛、仕事、つまり生きていくことのすべてを描いた作品です。

 このドラマのヒロインのように、30歳前後の女性は、すごく魅力的ですね。結婚というものに対する考え方も、以前とは変わってきていると思います。

 女の人が強くなったといわれますが、それは自分を大事にして、自分で判断する、寄りかからないとでもいうのでしょうか。実際にこの年代の女性は、仕事以外で話をしても、お酒を飲んでも、元気で、自分をしっかり持ってて、好奇心も旺盛で、面白い人が多いですよ。



近況・雑感

『徳女は焼けました しかし……』

徳女44回 佐藤 敏子

 昭和20年7月、私は鴨島町郊外の伯母の家から徳島市外が空爆で燃える空の赤さを息をのんで眺めるばかり。

 徳女に疎開転校したのはその年の春、徳島は父祖の地であり、母や伯母たちも徳女の卒業生。いとこのモトちゃんも同学年に在学中という深い縁がありました。

 空襲後、今思えば無謀にも私は汽車通のお仲間と共に、まだ余じんくすぶる市内の焼け跡を歩きました。さながら今年の阪神大震災の焼け跡のように、景色は一変し、もう何もない! 徳島駅も、父の生家も、徳島城跡の鷲の門。そして、あの由緒ある徳女の校舎も。

 その後、富田の仮校舎で1年半学び、私は再び東京に住んで徳島にもごぶさた勝ちとなってしまいました。

 しかし約10年前、宝塚での同期会に出席したのをキッカケに旧交復活、東京での同期会のお手伝いもして更にお付き合いが広がりました。同期の方々それぞれ、家庭で職場で或いは両立して堅実に実績を上げて来られたことをさすが徳女と感嘆。ここで各々のお名前を挙げる余地がないのが残念です。

 徳女という旧株の上に、今や堂々と大木に成長した城東高校のご隆盛と徳女卒業生の方々が、そのご子孫に至るまでお幸せな日々をと願っています。



『遠き思い』

徳女41回 仁木 操子

 戦後50年とひと口に言いますが、私達昭和の初めに生まれた者にとっては感慨深いものがあります。思いおこせば、昭和15年憧れの徳女に入学しました。しかし16年12月には太平洋戦争に突入し、世の中は次第に軍国調一色となり、スカートはモンペ姿となり着る物は地味な物ばかりでした。そのうち学徒動員が始まり授業を中止し、交替で陸軍の夏衣の縫製にミシンを踏みました。流れ作業なので、微妙に色の違う布を何十枚も重ねて裁断してある為、一枚ずれると、ポケットや衿の色が違って色合わせに苦労しました。仕上がりの点検で合格するかどうかと心配でした。

 その後田宮町の川崎航空の軍需工場へ出動し、航空機に積む酸素補給筒の製造に励みました。最初はハンダ付けの作業がうまく出来なくて皆さん苦労したようです。工場で昼食に出たひじき弁当も、当時はおいしくいただきました。昼休みに、日だまりで流行歌を口ずさむのが、ひとときの安らぎでした。

 私達の青春時代は、何事もお国の為と、黙って耐えて働く日々でしたが、それ故時代の荒波を乗り切る力が養われたと思います。月日がたつにつれて記憶も次第に薄れますが、当時の事は折りにふれ思い出す事でしょう。



『いざよい会』のこと

城東16回 本間 和

「いざよい会」この名から、中世の有名な日記文学を思い出して、私ども城東16回卒の集まりを「十六夜会」と優雅に書くと想像される方も多いかと思いますが、実は「いざ酔い会」と表しております。10年ほど前に卒業後初めての同期会が徳島で開かれ、その折の名簿をもとに東京でも毎年20名余りで集まっているのです。年々の幹事のアイディアで東京湾のクルーズになったり、箱根の一泊だったり、修学旅行を想いだそうと、銀ぶらバスというレトロなバスに乗ったりと、色とりどりのプランに、おいしいお料理、たっぷりのおしゃべり付き。毎年一回、タイムマシンで揃って高校生気分に戻れる日を楽しみにしております。

 数年前、私達が総会の担当学年の折に30回卒あたりまでの名簿を整理して、学年幹事を決めてもらったことがありましたが、若い学年ほど連絡に苦心しました。この「藍」も若い人々に興味を持って読んでもらえるようになると、より同窓会が身近に感じられると思います。今までクラス会をやっていなかった学生の方達から、開催の呼びかけの投稿などしていただいて、小さい集まりから少しずつ輪が広がるという形にでもなればよいのですが…。「いざ酔い会」は心の暖炉なのです。



『近況と雑感』

城東24回 栗田 宏美

 私は、ヤマハ音楽教室講師として17年間勤め、昨年4月に退職し現在は自宅で音楽を教えています。

 城東高校を卒業し、徳島を離れてからもう20年以上になります。徳島で暮らした年月よりも東京で暮らした年月のほうがいつのまにか長くなってしまいました。

 それでも、いざ高校野球になると徳島の出場校を応援してしまうのには自分でも不思議な気がしています。見ている自分はすっかり高校生に戻っているのかもしれません。

 高校での三年間はあまりにも短かったのですが、自分の将来を選択しなければならない重要な時でもありました。楽しいことばかりではなかった高校生活も、今ではなつかしく思い出されます。

 徳島に帰るたびに、駅周辺の変化には驚かされますが、城東高校はそれほど変わらないシルエットを見せてくれてホッとします。いつまでも誇り高いちょっと気取った高校であり続けてほしいと思っています。



とくしまNOW

『徳島へ、徳島から』

城東16回 手塚 喜久雄

 驚天動地の阪神大震災が起こり、その余波が未明の徳島を襲いました。

 この日、初老の人は「南海大地震以来の揺れ」と語り、若者(含む南海…を知らない私たちの世代)は、一瞬、目を点にした後、その言葉の意味と、今朝がたの体験をよみがえらせ、この地震の大きさに改めて震撼しました。

 その後毎日、TVに映し出される自分自身の恐怖感や、神戸市から一時帰省した息子、西宮駅で被災しためい、支援活動(身近な阪神地区の災害ですから、徳島からほんとうにたくさんの方々が、公私にわたり上阪し、淡路に渡っています)から帰ってきた者の話などが重なり、とても他人事とは思えない生々しいものを感じています。

 地震の際、とっさに妻子をかばい父親の威信を上げた者、別室に寝ていて、揺れに驚いて外に飛び出し、地震が収まってから家に入ろうとして、玄関で初めて顔を見合わせた夫婦など、日ごろ大切にしているものが、はからずも眼の前で音をたてた様は、さながら、「徳島大震災」の人間模様でした。

 さて、故郷徳島は、むかしと変わらぬ清明な水と空気につつまれ、ふりそそぐ陽光の恩恵を受け、山海の素朴な好食材にはこと欠きません。

 新鮮なだけでなく、ユズ酢のぼうぜずしや、とりたてのアジのたたき、さざえやアワビ、歯ごたえのしっかりとしたワカメ、シラスちりめん、それぞれの味をひきたててくれるスダチなどがさまざまにあり、こうしたものを口にするとき、なぜか母親を想い出し、そして、親への感謝の気持ちと、異郷での友人の事を思い出します。

 いま徳島の人々は、自然を大切にし、ふるさとの産品を同郷の方々にお届けするだけでなく、この豊かな天恵の幸を皆様とともに享受したいと願って、収穫を喜び、全国へ発送しています。

 なつかしい山河を家族と語り、また友人と歓談するとき、ぜひ、ふるさとの商品をお供にお加えください。

 楽しい語らいと、明日への活力と、本物のグルメの旅をお約束します。(平成7年2月)



恩師  先生
 なつかしい先生方の思い出と先生ご自身の近況をお伝えいただきました。

『先生の想い出』

徳女42回 三田 利子

 女学校というより「徳女」といった方がすんなりとなじむ様ななつかしさを覚える。その「徳女」を本来ならば五年制で卒業するはずのところを戦争のため、銃後の戦力となるべく昭和20年に41回の人達と繰り上合同卒業式をしたという歴史を持っているのは、私達42回のみではなかろうか。

 その様な次第で5五年間で習うべきものも4年間の内に詰め込み授業だった。

 仁木先生のエネルギッシュな漢文の速成授業は、食料不足で充分食べていない頭にも砂に水がしみこむ様によくわかった。今でも麻雀の合いの手に、漢詩が口をついて出てくるのは、そのおかげと感謝している。多謝。

 仙谷先生には東洋史・西洋史をお教え頂いた。授業の前に時事解説をして下さる楽しみがあった。小柄なお体で教卓の上に両手を揃えて、真摯なお姿で丁寧によくわかる解説であった事が忘れられない。市尾先生は四年生の組担任で国語の授業をお受けした。現在は鬼塚姓に変わられたがいつも口もとにはほほ笑みをたたえ、少し前かがみになって授業を進められた。次の尾崎放哉の自由律俳句に驚いた事もなつかしい。

 入れものが無い両手で受ける

先生の両の掌で受ける仕草。萬葉集唇を小さくつき出す様にして昂揚なさった面持ちで語られた事などが、わくわくする程、鮮明に動き出す。

 校長先生は西村先生から窪田先生へと代わられた。こうして書いているとつぎつぎとその時どきの先生方が思い出されて、徳女時代にかえっていく自分がいとおしく思われてくる。



『能楽三昧』

天野 義雄

 徳島は藩政時代より藍商人の豊かさから阿波の芸どころといわれ町人文化が発達したところである。現在の徳島は、能楽においては謡曲人口の少ない後進県であるが、歴代蜂須賀家のお抱え能役者は喜多流で、役者絵師、東州斎写楽は阿波藩江戸詰の能役者であったという説もある。また、鳴門には紀貫之の土佐日記の史跡のほか小宰相局の墓があって謡曲「通盛」の悲劇を今に伝えている。2年後のことであるが平成9年5月が鳴門市制50周年に当たるので、記念事業の一つにと「通盛」の薪能を企画している。

 昭和52年春、私の家に小さな能舞台ができた。旧の地名をとって北町舞台とよんでいる。私の主宰する喜多流喜陽会の稽古場である。今年(平成7年)は私の主宰歴25年と、春秋2回の喜陽会(発表会)は秋の喜陽会で50回記念会となり徳島駅前の四電プラザホールで記念の能楽講話「世阿弥と花伝書」を予定している。定年退職から6年目となるがお蔭様で心身共に快調で謡曲・仕舞・小鼓・太鼓など能楽百般の指導で多忙な毎日である。

 昭和30年から40年3月まで城東高校(社会科)に在職。30年10月の放課後のこと、宿直室から変な声が聞こえてくるので部屋の障子をあけると島村萬舞校長・板羽立雲教頭・新居正彬国語科主任など国語科の先生方が教材研究のため謡曲の稽古をしていた。社会科の若僧が顔を出したので先生方が面白がって私を引っぱり込み座らせた。これが私の謡曲や能楽との出会で丁度40年前のことになる。思えば私の今日在るは、城東高校のお陰。只々、感謝の気持ちで一杯である。(鳴門市撫養町斎田字岩崎九十九)



編集後記
創刊第2号の準備は、あの大震災の頃に始まり、その後サリン事件で騒がしい東京ですが、久しぶりの故郷は、眉山の桜が満開で、城東で過したあの頃と同じく平和そのものでした。


創刊1号


創刊によせて

城東渭山同窓会東京支部長
城東13回 太田 宏美

 平成5年度の支部総会において御承認いただいた会報第1号を無事発刊できることとなり、大変嬉しく思っております。

 支部長就任以来、この伝統ある同窓会の維持発展のために、微力ではありますが私なりに努力して参りました。第一は会員名簿のデータベース化の実現です。現在死亡会員、転出会員を含め2084名の会員がパソコンに登録済みです。第二は情報の収集、交換、伝達の基地として随時ご利用いただけるよう私の事務所を当分の間同窓会事務所とすることにしました。

 世界はまだ混迷と閉塞状況の真っ只中にありますが、家族の価値の見直しや民族の自立が求められ、同じ価値観や伝統を共有する欧州連合の結成など「心の時代」と呼ぶべき新しい動きが見られるようになっています。同窓会は時代が異なるにもかかわらず、同じ学校に籍を置いたというだけで一体となりうる不思議な存在で、今の時代感覚に相応しいもののように思います。今回も、超多忙の寂聴さんに、一面識もない私が単に同窓生であるという縁のみでインタビューを申し込み、快く応じていただけましたのも、同窓会の持つ不思議な魔力の成せることなのでしょう。

 高校の同窓会は地縁と学縁の二つの縁による結びつきという点で大学や小中学校の同窓会と異なります。故に、先輩、後輩の関係も予測できないような多様な可能性を持ち得るはずですが、縦横無尽に交流し、親睦を図るには年一回の総会における出会いのみでは明らかに情報不足です。多方面で活躍の会員が互いにその存在を知り、刺激しあい、世代を越えて活動領域や分野を異にして交流しあえるならば、会員の一層の発展と母校の発展に寄与できるとの信念がありました。

 交流の核ともなるべく「人」に関する情報の提供場所として会報の発行を計画したものです。会報の性格づけや内容については未だ十分な検討がなされておりません。今後の活動を通じて充実化を図り、同窓会の基盤として確立していただけますよう切に念じております。

 最後に、この会報発刊に際し、編集をお引受けいただいた木村孝さん(16回)のご協力に感謝し、また資料提供などのご協力をいただいた皆様方に厚く御礼申し上げます。



「藍」の発刊を祝う

城東渭山同窓会会長
徳女41回 長尾久子

 太田宏美支部長様はじめ役員の皆様方の並々ならぬご熱意とご協力によって、会報の発刊の運びに到ったことを心より御祝い申し上げます。

「赤いリンゴに唇よせて」、この可愛い「リンゴの歌」は、戦後の私たちの気持ちを明るく和ませてくれました。昭和24年新学制移行で男女共学の城東高校となった時は、愛唱歌として「青い山脈」が巷に流れ、人々に希望を運んでくれました。それから12年後の昭和36年4月に徳女同窓会と城東高校同窓会の合併が実現し、「城東渭山同窓会」が発足いたしました。この時に、私達が口ずさんだ「上を向いて歩こう」は、広く世界の人々にも流行していきました。徳女同窓会東京支部は、大正11年5月5日に誕生したと記録されております。合併後は、城東渭山同窓会東京支部として発足し、馬屋原絹江様が初代支部長にご就任され、支部の発展に御尽力されたと承っております。その後も、歴代支部長様はじめ、同窓の皆様方の熱心なご努力によって今日の東京支部があると存じます。同窓会の隆盛は、創立90余年の歴史の重みと伝統を誇る母校愛の賜物で、誠に有難く存じております。

 さらに、魅力ある同窓会づくりを目指して、同窓の皆様方の絆をより大切にされ、会報発行を通じ会員相互の活躍状況を知り、交流の活性化を図っていただきたいと存じます。

 会報の発刊を心から祝い、城東渭山同窓会東京支部の益々のご発展と、同窓の皆様方のご多幸を御祈り申し上げます。



発刊を祝して

学校長 疋田信正

 このたび、城東渭山同窓会東京支部に、会報「藍」が発刊されますことは喜ばしく、心からお祝い申し上げます。

 時は異にするものの、学び舎を同じくして、人生において最も活力の旺盛な青春の一時期を、ともに過ごしたもの同士が、より友誼を深めるための場を持つことは意義あることです。今後、会員一人ひとりのものとして、この会報を通じ、よき交流が図れるよう念願しています。

 1902年、徳島高等女学校が誕生し星霜を重ねること91年、たえず真理研究の場として、また人格陶治の場として、一貫した教育活動を展開し、堅実で清新な伝統や校風の樹立が図られてきました。時代を担う有為な人材を育成する教育理念としては、「時代を越えて変わらないもの」と、時代とともに変化していくもの」を統一してとらえる必要があります。

 つまり、創立から今日までの長い歴史を通じ、培ってきたよき伝統や校風を受け継いでいくとともに、科学技術の進歩、国際化、情報化、高齢化など社会の変化の中で、主体性の維持のために求められる判断力、新たな発想を産み出す根源となる思考力や創造性を育成することが課題となっています。

 アメリカの社会未来学者、アルビン・トフラーが「過去の文化を伝達するだけでは、未来の中で行きていく人間はつくれない」と述べているのも、このことを言い表していると思われます。

 ここに城東高校が、昨年度から取り組んでいる生徒が自ら学ぶ意欲や主体性に考え、判断し、行動できる資質・能力を培うことを目標とした「社会の変化に対応した新しい学校運営」(文部省指定による学校週五日制)についての調査研究や、「個性豊な学校づくり推進事業」の実施は、こうした教育理念の具現化への新しい実践といえます。その成果は、今後の高校教育の方向を左右するものとして注目されるところとなっています。

 城東4回の卒業であります私にとりまして、長い教職生活の最終段階を母校で勤めることができる幸せを大切に、母校発展のため微力を捧げる所存ですので、ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます。

 終わりに、この会報の発刊を契機に東京支部の進展が図れることを祈念し、お喜びのことばとします。



東京支部会近況

城東11回 厚井 隆志

 徳女・城東を卒業されたみなさん、徳島を出られて何年になられますか?若かりし日の良き友と別れて5年、10年…、いや50年。月日のたつのは早いものです。学校を卒業して間もなくは同級生に会いたいなどとあまり思いませんが、歳をとるに従って気にかかるようになるものです。

 改めて「城東渭山同窓会東京支部」についてご報告します。関東にお住まいの徳女・城東高校を卒業されたみなさんは、自動的にメンバーになっています。この会の前身は大正11年に第一回が催されたと記録されています。最近は、毎年6月の第二日曜日に総会・親睦会が開催され、徳島城東高校からは校長先生ほか数名の先生、同窓会の本部長なども参加され、当日は懐かしい「阿波弁」が飛び交い、高校時代にタイムスリップし、歳を忘れるひとときを過ごすことができます。

 いままで参加されていない方はとくに、一度試しに参加ください。

 現在、東京支部会は以下のようなメンバーで運営しています。

 城東渭山同窓会東京支部
  支部長   太田宏美(城東13回)
  副支部長   小林洋子(徳女46回)
  副支部長   竹口省三(城東16回)
  会計   瀬尾清子(併中2回)
  会計   高橋輝子(城東14回)

 支部長ほか、幹事は毎年輪番制で担当していますが、徳女は併中時代、城東は昭和35年~40年代が中心です。

 現在、卒業後10年程度までの方の参加が少ないのが実態ですが、一年に一回集えるこの会を、よりたくさんの方々とますます楽しいイベントにしたいものです。(前・支部長)

特別インタビュー

瀬戸内 寂聴 師 徳女36回
戦争の時代でしたが楽しいこともたくさんありましたよ

徳女卒のスーパースターである寂聴師にインタビューすることができました。超多忙ナスケジュールの中いろいろな話をうかがえました。紙面の都合上、学校時代の思い出、それも一部分ですが、お伝えします。

―― 先生は確か徳女36回だと思いますが

瀬戸内  そうね、昭和15年、今から50何年前かしら。あなたが知ってます?「紀元は2600年……」って。その記念の年。

―― 学校の雰囲気はどんなふうな

瀬戸内 場所は今のところと同じはずだし、敷地も変わっていないと思う。赤いレンガの堀がぐるっと囲っていて、広い運動場と、校舎は古い木造づくりでね。 図書館があって、プールももうできていたし、そうそう、裏に確かキリスト教の教会があったわね。学校の周りは静かな住宅地で、先生方の住まいもありました。

 私の家は大工町でしょ、そんなに遠くないのに、毎朝遅刻すれすれ。あのお堀端を走って走って、ピューって走りこんでた。もうたいへん。

 それから、大陸では戦争でしょ。級長って言うか、生徒を連隊体制に編成しましてね。呼び方も軍隊風に、大隊長、中隊長、小隊長っていうようになったの。私は、大隊長だったから、朝、軍歌に合わせて朝礼に全校生徒が集まる時、先頭に立って行進するんです。号令をかけたりしてね。今から思うとおかしいわね。そんな雰囲気でした。

―― それでは、とっておきの思い出といいますか

瀬戸内  そうね。やっぱり満州、朝鮮への卒業旅行かしら。当時は満鮮旅行といってました。満州は今の中国の東北地方です。別のコースで箱根・東京・日光というのもあったけれども、人気は満鮮旅行が圧倒的でした。二週間ぐらいかかって、まず船で釜山に上がって、汽車で京城、平壌を通り、鴨緑江を渡って新京まで行くんです。それはそれは大旅行でしたよ。おかしかったのは、私たちは肩からかける大きなズックの黒のカバンをかけていったんです。スーツスタイルの制服にそのカバンがその頃の通学のスタイルでしたから。向こうの人は、どこの孤児院の集団が旅行しているのかと思ったんですって。

 でも、この旅行も私達が最後。もう戦争していたから、戦前の学校生活の楽しい催しというか、旅行なんかも、私たちの時代で終わり。後の人たちは知らないわけ。

 これは大学でも同じ。私は東京女子大に進学しましたけれど、卒業旅行で京都、奈良めぐりがあるんです。これも私たちで最後。だから、いい時代の雰囲気をぎりぎり最後に味わえたというのかしら。

―― そのほか印象的なことといったら

瀬戸内  そう、事件といったら、やはり2・26事件。学校に入って間もなく、低学年だったと思うけれど、朝礼で、教頭だった田口先生という方が挨拶されて「君たちは学生なんだから、何が起ろうと、学生の本分を全うして勉強すればよろしい……」というような。とても立派な言葉でしたよ。事件そのものも確かにたいへんだったけど、その田口先生の挨拶がとても印象的でした。田口先生というのは学者肌の方で、三浦梅円の研究家で立派な本を出していらっしゃいます。

 たわいないといえばたわいないんですが、「銀狐団事件」というのがありました。私と同じ学年に「銀狐団」というグループがあって、皆さんとても美人が揃っていて、その人たちが夏休みに、徳中(現・城南高校)の男性徒と何人かと一緒に海水浴に行ったんです。それが問題になって。刑事に日記まで調べられたりして、大事件になってしまったのね。今では考えられない人権侵害ですよ。それで私なんかが、それはおかしいじゃないかって怒ったのね。ばかげてると思うでしょう。当時は道で中学生と逢ってもそっぽむいてないといけなかったんですよ。笑っちゃうでしょ。

―― 徳女という学校は

瀬戸内  ひとことで言って非常にレベルの高い学校でしたね。単に徳島の優秀な女性徒が集まっていたというだけでなく、それもありますが、学校のレベルそのものが高かったですね。というのは、私は東京女子大の国専に行きましたけど。全然勉強では困らなかった。つまり、高女時代の授業のおかげで大学でも恥ずかしい思いはしませんでしたよ。

 優秀な先生方が多かったんでしょうね。特に国語には印象深い先生がいらっしゃいましたね。保科千代次先生とか、鈴木イクノ先生、西野八十八先生とか。

 確かに戦争の時代でしたが、私たちの時代はまだ、戦前のいい意味での楽しい学園生活が残っていましたね。

―― では、若い人に

瀬戸内  今の高校と私の高女では仕組みがかなり違っている。私達の時は女学校だったけれど、今は男女共学でしょ。同じように言えませんが、私たちは一学年で大学まで行くのはせいぜい4,5人。今の人たちはほとんどが受験受験でたいへんね。でも、本は読んでほしいですね。受験のためじゃなく自分のために。あの時代に読むのはその後で読むのと同じ本でも、また意味合いが違うと思うから。



近況・雑感

●思い出の徳島弁  たっすい・へらこい・しんだい・どいやし・じるい・くんだら・ごじゃんぽ・ちやかばえる・いがる・ちょけ・かしこい・おぶける・おちゃぶる・げさくな・えらい・ひんける・とろくそ・せこい・ほなけんど・めんどい・はがいたらしい・こがう

※ ちゃんと訳せますか  (選・城東5回 賀川)



『三五会の度』

徳女35回 森本和子

 私達徳女35回の卒業生で関東地区に住んでいる人達は一緒によく旅行をする。徳島の人達の計画してくれる全国同窓会の旅行は毎年一回だは年に数回小旅行をする。

 この1月24日にも伊東温泉のいずみ荘で同窓会を開いた。15人程の人達の中、いつも一緒に出かけられるのはこのところ段々と減って8人か9人かという人数となってしまった。71歳、72歳ともなれば無理はないかと思うが、あの人が病気とか、脚が悪いとか聞く度、明日は我が身かと淋しくなる。温泉宿に着いてもまずはおしゃべりで、湯に浸るのは二の次という有様。病気のこと、家族のこと、世間の話、いくら話をしてもあきるということがない。

 同じ女学校で学んだ友達というので何の遠慮も心配もなく話が出来るのが私達にとって一番のストレス解消法となる。専業主婦も職業を持っていた人も今は第一線を退いた人が多いので、話題にこと欠くかと思うが、なかなかどうして、政局を語り、テレビドラマの批判もするどいものがある。さすが当時の徳女は県下の才媛が集まるところであったと思い出させる。

 伊東の帰路寄った熱海の梅林は梅は三分咲きであったが、商魂たくましい人達からまんじゅう、梅茶のふるまいを受け、梅よりだんごとなった。



『併中卒生のつぶやき』

併中1回卒業生

 私達はヘイチュウ卒業です。名簿の中でも、何となく目障りな学年名は、たった二学年しかありません。

 教育制度変革で生まれた落とし子のような学年は戦車と終戦後の変動の中で、入学と卒業が同一校名でなく、履歴書を書く時はなんとも不便なものでした。

 昭和14年尋常小学校入学。16年太平洋戦争突入とともに国民学校となり20年卒業。その年憧れの徳女に入学したものの、3ヶ月後の7月4日の空襲ですべて焼失。8月終戦。9月の二学期は富田小学校に間借り。不自由な二部制授業。焼失した校舎の復興資金集めのため、演劇で地方巡業。その為のチケット売り、荷札作りの内職等で協力し、新校舎落成!引っ越しは炎天下。富田から机椅子を担いで運ぶ人海作戦で授業を開始したものの、六三三制実施の為、徳女は新制女子高となり、在学中の二学年は併設中学生となって23年、4年卒業。ここに、併中卒が二学年生まれた訳です。これは男性の場合も同じでした。

 23年女子高校入学となったものの一年間だけ。又もや県の教育制度大変革の為、市立校廃止、男女共学、地区制実施となり、市内はスクランブルされ四等分。東西南北に涙で袂を分かった訳です。その為、卒業はそれぞれ城東、西、北高校、市外の人はその地の高校卒となるのです。そのまま残れた人、南に移れた人は幸運でした。西に住所の在った人は、今は幻の城西高校卒で、2年間の高校生活の母校はありません。

 この様に戦争と、教育制度の大変動の中で振り回され揺れに揺れた私達ももう還暦を過ぎました。平和な今を感謝し、お互いに連絡しあい、いたわりあって、同期会、ミニ会と、明るくそして逞しく過ごしております。少しはヘイチュウの事をご理解頂けましたでしょうか?



『雑感』

城東13回 笠谷 隆久

 ふる郷徳島を離れて、早や30余年になる。高校を卒業する時には、他の職業を考えていたが、どういう縁か金融マンになり転勤人生を歩む事になってしまった。通算では東京での生活がずい分長くなったが、これまでに埼玉、広島、山口と地方勤務も経験した。
 転勤というのは、ある一面では生活の本拠が定まらない、子供の教育などなかなか大変なことも多いが、反面、得るものも多い。その土地土地の気候、風土、人情にふれられるし、何よりも得がたいのは人とのふれ合いである。先輩諸氏から『仕事も大切であるが転勤したら、その土地で一人でもよいから真の友人をつくれ』とよく教えられたが、最近、まさにそのとおりだなと思う。かっての勤務地の友人達が上京してくると、よく声をかけていただくが、その際には余程のことがない限り、スケジュールを調整し、食事をしたり、酒をくみ交したりする。勤務している当時の出来事、その土地の近況など話がはずむ、なつかしくもあり、楽しいかぎりである。もちろん、私の方も結婚式などで当地に出かけることもあるが、皆、本当に心からもてなしてくれる。やはり人は大切にしておかなくてはとつくづく思う。もちろん、頼まれることもいろいろあるが……。

 同窓の友も本当に有難いものである。私と同じ卒業年次に、弁護士の太田嬢、アナウンサーの蔭山氏、日本画家の市原氏などがいるが、機会をみて年に何度か酒をくみ交わす、タイムトンネルをくぐり、高校時代の思い出話をしたり、自分達の近況など話題にこと欠かない。またいろいろ相談にのってもらうこともある。職場内との付き合いと違い、住む世界が異なるため話の幅も広く、利害関係もないので、本当にリラックスしたなごんだ時間が持て、私自身得るところも多い。私にとってこうした付き合いは、貴重な財産の一つであり、これからも大切にしていきたいと思う。

 現在、徳島にはまだ親父が健在である。私は長男であり、いずれ徳島に帰ろうとも考えている。最後になりますが、我が郷土のますますの発展と同窓諸氏のご活躍をお祈りします。



『メッセージ』

城東30回 兼子 順

 初めまして。簡単な自己紹介、ならびに近況報告をさせていただきます。某私大を中退し、昭和59年に徳島大学医学部医学科に入学して平成2年に無事卒業・医師免許取得しました。同年に東京医科歯科大学第2外科医員となり、お茶の水大学で1年研修した後、武蔵野日赤病院で半年間麻酔科研修、続いて品川区にある東芝病院外科で2年間修行をし、本年1月より静岡の榛原総合病院外科で修行しています。2年後に東京医科歯科大学に戻り臨床及び研究をする予定です。医学に関してご質問・ご相談等ございましたらご連絡ください。少しはお役にたてると思います。

ふるさと徳島の近況

城東16回 吉川 真澄(徳島県庁勤務)

 平成5年徳島において、40年振りに第48回国民体育大会「東四国国体」と四国で初めての第29回全国身体障害者スポーツ大会「躍動のうずしお大会」が県民総参加の中で開催されました。この二つの意義深いスポーツ大会は、大会史上にひときわ輝くスポーツの祭典として、私達に深い感動を与えてくれるとともに、県民が心を一つにした時のエネルギーの大きさを教えてくれました。

 さて、二十一世紀を目前にして、ふるさと徳島では、徳島の周りで進む二つの国家プロジェクトにより、大きく様変わりしようとしています。その一つは、平成6年の秋に開港が予定されている関西国際空港で、もう一つは平成10年の春といわれている明石海峡大橋の開通があげられます。

 本県の将来的状況を見た場合、神戸~鳴門ルートの完成により、本県が本州と陸続きになると同時に四国と近畿圏との交流の結節点になるということから、非常に意義深い事であり、そのためにも今後徳島県がしっかりとした足腰を整えていく必要があります。県では、この二つの国家プロジェクトがもたらす効果を最大限に生かすためのアクションプログラムとして「三〇〇〇日の徳島戦略」が平成2年11月に策定されており、これに沿って事業が着実に進められています。この計画は、明石海峡に結びつける道路整備を中心とした交通ネットワークの整備と足腰の強い産業基盤の確立に向けた産業活性化を基本とし、「ふれあう徳島」「つくる徳島」「ゆきあう徳島」の三つの大きな柱立てのもと、48の事業が採りあげられています。以上徳島県では、平成5年9月新しく圓藤知事を迎え、住む人が愛着と誇りの持てる個性と魅力ある県づくりが進められております。



恩師  先生

糸川さんには土井先生の思い出を、阿部先生にはご本人の近況を書いていただきました。なお阿部先生は昭和37年に初めて城東高校に赴任され、48年まで勤務されていました。

『恩師のはるかな思い出』

徳女40回 糸川 久江

 城東高校の前身、徳島高等女学校は徳島きっての名門校であり、それはそれは誇り高い学校でした。その中でもひときわ存在感のあった先生が数学の土井ナツノ先生。色白でふっくらとした小柄な容姿には母親の雰囲気があり、その反面りんとした信念のためには一歩も譲らない姿勢は見事でした。私達に妻として母としての心構えをしっかりと吹き込んで下さった先生でした。

 病弱だった私は入院で三か月も学校を休んでしまい勉強のおくれを取り戻そうとあせりましたが、からだがついて行けず度々保健室に運ばれる始末でした。その日も保健室のお世話になり、ふと目を覚ますと横で土井先生が優しい目で私を見ていて下さいました。

「ねえ、富永さん、あなたはこのままでは駄目。鉛筆の芯にたとえると、1センチ以上もとがった針のように出ている状態なのよ。これではすぐ折れてしまうわ。芯は3ミリ位出ていれば丁度いいの。人生楽しく無理は決してしないように、自然のままに行きて頂戴。」

 日頃のあの厳しい先生がこんなに優しく力づけて下さると思うと胸がつまり、この言葉「自然のままに」は私の心に深く刻まれた50年経ても行きる指針として決して忘れることはできません。

 そして数多くの卒業生が折にふれ私のように恩師を思いおこし、きょうも又元気に生きて居られるだろうと、精根を傾けて私達の教育にあたって下さった先生方にお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。



『兼好さんはキザな人』

(前・徳島市立高校校長) 阿部 健

 『花は盛りに、月は隅なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行くへ知らぬも、なほ、あはれに情け深し』(桜の花は、まっ盛りに咲いているのだけを、月は、かげりもなく照り輝いているのだけを、見て賞美するものであろうか。降っている雨に向かって見えない月を心に慕い、簾を垂れて、その中に身を籠らせて、春の次第にふけてゆくのを知らずに過ごすのも、やっぱり、しみじみした感じがして、情趣が深いものだ)

 皆さんと「徒然草」を勉強したとき、一番よく反応したのは、この部分であったという記憶があります。眼をくりくりさせて、それこそ、議論が沸騰。

 ―さすが風流人だとほめる人。趣味として、いいものがあるという人。屈折したインテリくずれ風だと言う人。中国の詩の亜流だという人。―そんな中で、ある一人の人が、要するに、これは単なるキザだ、と発言したことで、みんなは力が抜けてしまって、もう議論する意欲を失ったことがありました。兼好さんは威厳が無くなり、私もそのあふりをくって授業のしまりがなくなりました。

 つまるところ、古典といい、文学といったって、しょせん人間のおこないですから、このように言いなせば、それはそれで立派な解釈になります。ある意味では洗練された解釈でしょう。これを高校二年生で言うところは、早熟というか、ヤケにませたガキどもの集団であったように思います。

 この時以来、私は「徒然草」の授業のたびにみんなの顔を思い出して、少々の荒っぽい意見が出ても慌てなくなりました。そして自分がキザにならないように、そう見られないように用心するようになりました。皆さんに感謝しています。

 この春、私はretireいたしました。(キザ?)城東の卒業生たちが4月9日(土)に徳島公園の鷲の門で引退慰労の花見の宴に招いてくれています。ちょうどその頃、桜は満開でしょう。兼好さんをまた、意識してしまいそうです。



編集後記

太田支部長から「会報」の話があり、16回卒業生で概略の方針を話し合ったのが秋の同窓会の2次会の席でした。そして、支部長を初め先輩、後輩を含めた拡大編集会議を重ねて責任分担を終えたのが木枯らしの吹く頃でした。皆が来年の事だと思っているうちに年が開け春がきて、気がつくと締めきりを過ぎていました。徳島存在の恩師に、在京の先輩に、関西在住の後輩にと連絡を取りながらやっと原稿を集めました。今号は創刊号となっていまが、試行の段階でプレ創刊号と位置付けたいと思います。今後の担当者の手ですばらしい会報にして頂きたいと願っております。ご協力を頂いた皆様どうも有難うございました。
(竹口)