城東渭山同窓会

同窓生のコミュニケーションの場を提供する

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会報

創刊14号

平成19年

「藍」によせて  城東17回 横井忠雄


 何せ小学校時代からの大の作文嫌い読み辛い点は御容赦願います。

 航空会社に職を得て37年間その責務を全うし、晴れて定 年退職、 現役時体験した四方山話を披露させていただきます。

 まずは読み飛ばして戴きたい経歴など、1971年1月入社、東京、仙台、加州サンディエゴ近郊にて2年半の基礎訓練の後 、DC-8のセカンドオフィサー(第3の乗員)としてチェックアウト、B747(通称ジャンボ)に移行、都合4年間第3の乗員として過ごし、約1年間の訓練を経て、B747F/Oファーストオフィサー(副操縦士)として乗務開始、12年余りF/Oを勤め上げ1988年機長国家資格取得、3年後にB747-400所謂ハイテクジャンボに移り現在に至る。車と違い機種毎の国家資格を必要とし 移行の度毎に8ヶ月から1年の訓練を要します。又、資格維持の為に毎年2回の審査、3回のトレーニング、2回の身体検査、4回の座学等ボケる暇もありません。

 B747のF/O時代、天皇在位60周年記念コイン用金塊をそれとは知らず大阪造幣局へ送るため、米国アンカレッジより成田迄坦務、到着後数台のパトカーと警官に機をとり囲まれ、降機後金塊と知る。当時の貨物輸送明細には、Valuable goodsとしか記されておらず、後にして思えば、途中持ち逃げすれば今頃悠々自適な生活を営めたのにと後悔(当時南米の絵画美術品等満載の貨物機行方不明事件あり)。

 B747ー400機長昇格後、ベルギー国王夫妻来日時、成田到着後、通常移用しないハンガー(格納庫)前に駐機、タラップと歩経路に赤絨毯が敷き詰められ、その上を優雅に迎えのヘリコプターへ移動して戴き、素早く絨毯が巻き取られ、迎賓館へ向けヘリ離陸後VIP搭乗と降機遅れへのお詫びをアナウンス、この様に要人搭乗時には到着まで極秘裡に執り行われます。

 又、仏大統領とH首相の間にとり交わされた、国宝級美術品交換時ご記憶の方も多いと思いますが、仏からは「自由の女神」の原型と絵画「民衆を率いる自由の女神」が、日本からは門外不出の国宝「百済観音」がS大統領たっての希望でルーブル美術館に展示され ることになり、当時の法隆寺管長と共に、関西空港よりパリ迄の搬送を担い、忘れもしない到着直前、英国皇太子妃の事故が起こり、観音様の到着がもう少し早ければ御加護を受けられたかもと悔やまれました。

 スペインの有名なリアルマドリード一行搭乗時、私達の少年時代は野球全盛でサッカーなど全く興味が無く育った為、司令塔フィーゴのサインとチームの旗等ギブアウェイを頂戴しましたが、サッカーフリークの甥の友人に贈呈してしまい、「なんでも鑑定団」の評価を聞き損ねたなと今となれば後悔することしきり。日本の代表メンバーをチャーター便にてウズベキスタンのタシケントへ迎えに行った帰り、最後の数分でゴールを決められてしまったKゴールキーパーは、直行ができない為モスクワ上空経由で10時間のフライトの間中2階席最前列で悲嘆にくれており、彼のやさしさを垣間見た気がしました。沈着冷静なMF M氏フライト中読書に浸り、勉強家の一面を見せ、FWD J氏等とは楽しく歓談できました。従って、この1997年の日本代表チームのほぼ全員のサインは過去の失敗を踏まえ今も大切に保管しています。

 2007年度ボジョレヌーボーチャーター便の内、最後の直行便では4万本、皆様のお口に入ったかも知れません。ワインを傾けながら空にも想いを馳せて戴きたいと思います。

 現在私は、昨年定年退職し、特別運行乗務員、所謂嘱託として、空の上で皆様にお目にかかれるその日を楽しみにフライトを続けております。

 最後に、渭山同窓生唯一の後輩21回生宇野元君が残念ながら志半ばにして逝去されたことを併せてご報告させて戴きます。  ”合掌”



会計について  城東24回 栗田宏美

 私が東京支部の同窓会に始めて参加したのは、大学生の時でした。
 母が徳島の同窓会の役員をしていた関係で出席せざるをえなかったためです。
 その後、母が出てこなくなっても私はなるべく出席するようにしていました。最初の頃は大半が「徳女」の方達でしたが次第に「城東」の比率が上がってきて現在はほとんどが「城東」です。
 四年ほど前から会計をやるようになりましたが不況の中、金利も低く、貯蓄を取り崩しながらの運営でした。
 残念なことに、年会費は未だに「徳女」の方たちにかなり依存しています。
 「九十歳を過ぎ郵便局に行くのもたいへんで振込みが遅くなって申し訳ありません」などと通信欄に書いていただいたものを見ると本当に申し訳なく思います。
 しかしながらこうしたご尽力にもかかわらず年会費の納入は年々少なくなっています。個人情報保護の観点から、若い卒業生の名簿が入手できないのも原因のひとつです。
 こうした状況を少しでも改善していかなければ数年で破綻してしまいます。
改善策のひとつとして

「城東渭山同窓会東京支部」のホームページに広告を出すスポンサーを募り「ホームページの維持・管理費」をまかなうようにしました。小さいもので5千円ですが、今後スポンサーが増えることを期待しています。

 そして、もうひとつは

「年会費の値上げ」です。節約には努めていますが、郵便局の振込み手数料の値上げもありこのままの年会費では非常に不安な状態です。

 心苦しいのですが今回より500円の値上げで、1500円にさせていただきます。

 現状をご理解いただき、お一人でも多く年会費をご納入いただきますよう、お願いいたします。



アウトドアライフ

城東26回  加藤(旧姓野間)信子


徳島県の鳴門で生まれ育ち城東高校を卒業。大学も就職もそして結婚後も徳島で住み続けていた私が夫の仕事の関係で東京の江戸川で暮らして2年余りになりました。転居した頃は知らない場所での生活に心細い思いをしていましたが、東京在住の同級生の皆さんから声をかけて頂きとてもありがたかったです。

 さて、私のアウトドアライフはボーイスカウト出身でアウトドアが大好きな夫と結婚した事から始まりました。初めての海部川での川原のキャンプはゴロゴロした石の上で一睡もできず、スコップで穴を掘っただけのトイレは足元がどんどん崩れていくし。次の山のキャンプでも曲がりくねった山道で車に酔い、夜は寒さで眠れず、私にとっては散々なものでした。

 それが慣れとは恐ろしいもので、20数年経つうちにいつの間にか自然の中での楽しみ方を知るようになりキャンプが楽しいと思えるようになったのです。(それはひとえに自分の忍耐の賜物であると言う誰かの声が聞こえてきそうですが。)

 子供が小学生になった頃から徳島県内を始め、西は鳥取県の大山から東は新潟県の妙高高原まで数々キャンプの思い出はありますが、わが家の一番人気は地元徳島県那賀郡那賀町(旧木沢村)の「ファガスの森」です。徳島市から車で約2時間。国道193号の土須峠を越え剣山スーパー林道に入って約7キロ。徳島・高知両県に広がる剣山国定公園内にあります。「ファガス」は一帯に広がる原生林のブナの学術名だとか。

 1994年から台風の被害でスーパー林道が一時通れなくなる前年の2004年まで、毎年わが家のキャンプ始めは5月の連休のファガスの森からでした。5月の初め、徳島市内は街路樹のツツジが満開で初夏の気候ですが、標高1300メートルの山の中はまさに冬から春へ変わる芽吹きの季節です。樹齢数百年とも言われるブナを始め、木々と言う木々が柔らかな黄緑色の新芽を付けて目に優しく、足下は秋に降り積もった落ち葉でふかふかです。一番多い時には総勢30人でキャンプをした事がありましたが、子供達の楽しみは池の中のカエルの卵や小川でのサンショウウオ捜しやタラの芽取りなど、山野を駆け回って退屈する暇はありません。その傍らで大人達はゆったりとした時間を楽しみながら、みんなで餃子を山のように作ったり、野草の天ぷらに舌鼓を打ったり、時には焚き火を囲んでワインを傾けたり、飽きるまで星を眺めたり。子供にも大人にも心地良い優しい時間が流れます。さすがに朝晩は冷えて寒さに弱い私などは着ぶくれただるまさん状態になりますが、手がしびれるような冷たさや雨や夜中に山から吹き下ろす大風がそれ程苦にならずに毎年毎年出かけて行きたくなるのは、深い深い森の中で自然に抱かれている安心感のせいではないかと思います。

 離れてますます徳島が好きになりました。

 故郷徳島を思い出される時には、是非その豊かな自然の風景にも思いを馳せて頂ければと思います。



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創刊13号

平成18年

『東京支部だより』
 東京支部長 定本貴明 (城東24回卒)


 今年の東京支部総会は、6月11日に、皇居東御苑に近い四季交楽「然」で開催されました。官庁街でもあり、休日は閑散としている町並みでしたが、東京文士40名の推薦している穴場のレストランでした。当日は梅雨入りしたかのような小雨まじりのお天気でしたが、64名の参加者があり、2時間あまり楽しいひとときを過ごせました。徳島からは渡辺副校長先生はじめ、田中・郷司先生、同窓会からは武久会長、宮本副会長および事務局の中野様が駆けつけてくださいました。また恩師の先生として稲塚浩先生(理科担当)、芋川功先生(理科担当)の2名をお迎えいたしました。今回の記念講演はNHK俳壇でも活躍されています平成8年城東高校卒業の若手女流俳人大高翔さんにお願いしました。支部総会は午後1時から開かれ、一年間の活動報告および会計報告を行いましたが、年会費未納者が多い中、今後の会費集めの提案をさせて頂きました。また長く東京支部会報「藍」の発行に尽力されてきた城東16回の木村孝さんが昨年3月永眠されたことを報告し、ご冥福をお祈り申し上げました。その後ご来賓の方々のご挨拶のあと、村瀬幸一支部副会長の乾杯で、懇談会が始まり、ビュフェ形式の食事、ドリンクを頂きました。今回は卒業年度に合わせ、着席を配分させたお陰で、各テーブルでは大いに昔話に話が弾んでいたようでした。来賓の先生からは、新しくなった校舎には全室冷暖房が入るようになったことを聞き、当時との違いを実感させられました。ゲストの稲塚先生、芋川先生からは在職時代の思い出話をして頂き、講演の俳人大高翔さんには高校時代の担任との思い出話や俳句の始めたきっかけや現在の活動状況を楽しくお話して頂きました。話の途中、会場の卒業生が作った即席俳句に対する批評と先生のお手本が発表され、大いに盛り上がりました。またスライドにて徳女時代や城東高校の古い校舎などが映し出され、皆が当時の懐かしさに浸りました。楽しい2時間はまたたく間に過ぎ、最後に全員で校歌合唱し終了しました。その後恩師の先生や大高さんもお誘いし、学士会館で二次会を行い談笑しました。ただ今回は徳女の同窓生の参加がなく、また出席者の学年も限られていたようです。どうしても若い世代(平成後)の参加は支部会に名簿もないため仕方ないのかもしれませんが、とても残念でした。ただ準備が大変な割には、毎年ほぼ同じメンバーでの参加による東京支部総会は、毎年開催する必要がなくなってきているような感じがしました。徳島から遠く離れた東京で、それぞれの分野で活躍している同窓生は大勢います。最近はプライバシーが尊重される時代でもあり、通信経費がかさみ、支部財政が貧窮している中、徳島の同窓会本部で同窓生の実態を把握していればよいのではと意見される方もいました。今後の幹事にご期待したいと思います。
最後になりましたが、今回の開催にあたって、準備等に尽力していただいた、村瀬幸一および戸田浩二副支部長、会計の栗田宏美さん、各学年幹事の皆様に感謝いたします、ありがとうございました。

『JOTO26BAND徳島公演』

26回 秋田(旧姓泊)ゆう子

2007年2月11日、JOTO26BAND3回目のライブがBELL’S(栄町、言問ビル4F)で行われました。
 バンドは、2006年1月2日、26期生の同窓会で、当時の曲を歌うという企画のもとに、結成されました。最初は、司会の2名を含め、10名でのスタート。メンバーの職業も公務員、教員、医者、建築士、経営者、会社員、主婦等様々なら、音楽の経歴も、ライブに忙しいドラマー、クラシック畑のベーシスト、そうかと思えば、昔取った杵柄で久しぶりに楽器を手にする者など、多士済々の面々。多忙なメンバーが、個人練習、長時間の全体練習に時間を割き、臨んだ同窓会では、大評判に。
 これを1回きりで終わらせる手はないと、昨年5月13日、ドラマーの本拠地大阪で2回目のライブが行われ、これまた大盛況。
 終わったらすぐ次を考えるのがこのバンドの凄いところ。自薦他薦で同窓生をスカウトし、夏には淡路島で、本格的なバンド合宿も。かくして、メンバーはスタッフ含め20名もの大所帯。9月には会場も決定し、着々と2月11日に焦点を合わせてきました。
 ライブは午後2時からの開演にもかかわらず、1時過ぎにはぎっしり満員に。110名以上の方にご来場いただき、会場は熱気に包まれました。
懐かしい阿波弁のMCの曲紹介に乗り、一部、二部とも大盛り上がり。
*時代 *Yesterday Once More *なごり雪 *亜麻色の髪の乙女 *青春の影 *Tennessee Waltz *悲しくてやりきれない *落陽 等々、全17曲。最後は全員で「あの素晴らしい愛をもう一度」を大合唱。ご招待の亀井現校長先生、浅香前々校長先生にも、最後まで楽しんでいただきました。
手作りライブということで、チラシ、チケット、歌詞カードも自分たちで印刷し、会場の
飲み物、食べ物も買い出しから、盛りつけ、ドリンク作りまで全て自前で。多くの方と楽しい時間を共有できたことがメンバー一同大きな糧となりました。
 徳島公演が終わった今、目指すは東京公演か?と目論んでいます。とはいえ、自分たちが楽しむためにやる、出演料はもらわない、ライブの次の日は休みであること、などの条件をクリアするのも大変なこと。でも必ず実現するはずの東京公演、そのときは
東京支部の皆様、よろしく応援お願いいたします。

『和歌の世界に魅せられて』

城東29回(昭和53年卒)  近藤(谷)知子

 城東高校を卒業して早くも30年の年月がたちました。城東高校は、母、兄の母校でもあり、今は姪が通っています。ブレザーとジャンパースカートだった制服も、おしゃれなイマドキの服に様変わりしたようで、ちょっと寂しい気もします。
 私は、在学中理科系のクラスにいたのに、なぜか文学部に進学したという変り種です。その後、大学院の修士・博士課程に進み、現在は横浜にあるフェリス女学院大学の教員をしています。フェリスは、横浜の緑園都市にキャンパスがあります。美しい町ですが、まだまだ至る所に自然が残っていて、先日などはキャンパス内にタヌキが現れ、大騒動となりました。無事保護されたタヌキは、一日だけ学内で大切に保護され、翌日にはズーラシアへと引き取られていきました。同僚には、城東高校の後輩もいるのですよ。
私の研究分野は、中世の和歌です。新古今集が生まれた時代を中心として、文学と歴史の融合領域を研究しています。2006年5月には、角川書店から『和歌文学の基礎知識』という、和歌の入門書を出版しました(仕事上は、旧姓の谷知子を使っています)。書店で買えますので、是非読んでみてくださいね。勤務校の大学以外にも、朝日カルチャー横浜校(ルミネ8階)で月2回講義をしたり、一般の方々に和歌の楽しさ、面白さをお話しする機会も持つようにしています。女子大生に囲まれる日々とは、一味違う楽しいひとときを過ごしています。そんなこんなで、高校卒業以来、和歌の魅力にとらわれた30年だったのかもしれません。
 今年の6月に催される城東高校同窓会東京支部の総会で、こうした専門のお話をさせていただくことになりました。和歌や天皇のお話、阿波国と和歌の関わりなど、私の専門から楽しくお話できれば、と思います。是非、お越しください。


創刊11号


平成15年

森 嵩(城東第7回)


私は城東高校を卒業してから47年も経過しており、すでに現役も引退しているので、よく言えば悠々自適、自嘲的に言えば無駄飯を食っている毎日である。従って皆さんにお話できるようなすばらしいことは何一つしていないが、もてあましている暇を潰している動きの一端を述べてみる。

今年の4月から非常勤で20年前に勤めていた組織のお手伝いをはじめたが、出勤してみて最近の警戒の厳しさに驚いた。事業所の敷地入門時にチェックを受けることは私のような昔型の勤め人にも理解できるが、各建物の入口には受付の女性とは別にガードマンが立って、入退場する職員が携帯している写真付きIDを確認するのは勿論、建物の中の移動もIDカードをセンサーに近づけて扉を開けつつ進むようになっていた。出勤初日はまだIDカードを作ってもらっていなかったので、臨時のバッジを着けていても、誰かにエスコートしてもらわないとどこにも行けない状態であった。もっとも困ったのが扉の外にあるトイレを利用するとき、近くの人にお付き合いをお願いしなければならないことで、このときは幸い毎回数分間待たせるだけですんだが、もし腹の調子が悪くなったりして、長時間トイレの前で待ってもらうには、いちいち恥ずかしい事情を詳細に説明しなければならないはめに陥ったのではないだろうかと、つまらない心配をしながら久しぶりに出勤初日の仕事を楽しんだ。

私は現在年金生活者であるが、まだ元気に働く意欲はあるので何か社会のお役に立ちたいと考えている。年金を支える国の財政事情は厳しく、そのうち3人で1人の年金生活者を養うことになるということを思うと心苦しい。せめて自分の健康に留意して、介護保険や健康保険の財政悪化防止に努めるのも社会貢献の一つではないかと思い、近所にフィットネスクラブが昨年夏にオープンしたのを機に筋力トレーニングをはじめた。最初はインストラクターに作ってもらったメニューに従ってトレーニングに励んでいたが、そのうち筋力が付いてきたような気がしてうれしくなり、ムキムキマンを夢見て自分で負荷をどんどん増やしていったところ、肩がこりはじめて、その次に右手にしびれを感じたので整形外科で調べてもらった。その結果、頸椎の変形が確認されそれが原因らしいという診断であった。この年になって必要以上に鍛えようとつい頑張ったのがよくなかったらしい。サラリーマン時代の必死で努力する悲しい習性が災いしたようである。頭では何でもほどほどにするべきだと承知しているつもりでも、実際は分かっていなかったのだと反省している。これで頑張らない大切さを学んだ。

時々山登りを楽しんでいる。しかし年をとってから始めたので本格的なものではなく、ただ歩くだけののんびりしたハイキングである。そこで登山計画をするときなどに山の紀行文や案内書を見る機会があるが、その土地の歴史や山の地質的な説明、さらに高山植物の生態系についての記述が多く、行く前からわくわくさせてくれる。実際に登山道で可憐な花を見つけると疲れを忘れさせてくれる。私が特に好きなのが、コメツガやトウヒの純林に美しい苔のついた岩などがある登山道を歩くときである。私も帰宅してからその感激した想いを記録しておきたいと写真付きで登山記録を書くようにしているが、花、樹木、鳥、地理等の知識がないので、「黄色い可憐な花」とか「きれいな鳴き声の小鳥」としか記述できないので、読み返しても迫力に欠けた文章になって面白くない。すぐれた紀行文を読むと、樹木や地理のことを書いているだけではなく、その学識の深さを感じさせる著者に対して心から尊敬することが多い。私もせめて樹木と花の名前くらい正確に知りたいと図鑑を買ってきて調べては見るが、これがまた難しい。山には重い本は持って行きたくないし、小さな図鑑ではほとんど用をなさない。高山植物でも、花については家内が同行しているときはほとんど教えてもらえるが、何回も同じ質問をするので、その覚えの悪さにあきれて馬鹿にされている。名誉挽回にと自分なりの植物図鑑を作れば少しは知識も深まるだろうと思い立った。山ではサンプル採集はできないので、デジカメに写して帰宅後パソコンで拡大して調べているが、樹木などは木の肌、葉・花・実の色や形が季節やその他の条件によって変化するので、写した写真の像のピントが合っていないこともあって、名前を特定するのが難しい。とても植物図鑑までは作れないことを悟った。しかし、こんなことに悩みつつ写真や行動記録の整理をしながら自分しか読まない登山記録を書くのは実に楽しい。


『思い出』

今から、何年前のことでしょうか、瀬戸内寂聴さんが新訳源氏物語の出版に先立ち、新刊紹介の講演会のために、ニューヨークに来られたことがありました。

マンハッタンにある日本クラブでの講演会のあと、その翌日に開かれたニューヨーク徳島県人会主催の歓迎会でお会いする機会がありましたが、その時のことをふっと思い出しました。

寂聴さんは、城東高校前身の徳島女学校出身ということもあり、なにかとても身近な気持ちでお話しする事ができたように思います。とてもお元気で、絶え間のない笑顔に明るい張りのある声をお持ちで、黒い袈裟がよくお似合いのとってもチャーミングな尼さんでした。阿波踊りまでご披露して頂き、感激の一日でした。

日頃、あまり日本人と接することがなく、普段は仕事に、プライベートにと全て英語での生活の私にとって、こういう集まりは、まるで故郷に帰ったような気持ちにさせてくれます。

特にその時の集まりは、日本人同士であるうえに徳島県出身者、それに加えて寂聴さんは城東の大先輩という、私には最高のパーティーでした。

何か、いつも忙しく、そして駆け足で走りっぱなしの毎日でした。

ニューヨークでの生活、そしてインテリアデザイナーとしての仕事は私を虜にし、15年が過ぎようとしています。いま改めて、時の経つ速さに自分でも驚いています。色々なことが次々におこりましたがその中でも、とりわけ、2001年9月11日の大惨事は今でも昨日のことの様に覚えています。なんだか悪い夢を見ているような、現実の世界では到底予想不可能な大惨事が、あの抜けるように青い空の朝に起こってしまいました。人々を恐怖のどん底に落とし、やり場のない怒りと悲しみへと駆り立てましたが、その時の、ジュリアー二市長のすばらしい陣頭力、そして団結した市民が一体となり、街の復興を成し遂げようと、みんなで必死にとりくんでいる様子をマンハッタンの住人として見守っていましたが、感動的でした。益々、この街への愛着心が増えていったのは言うまでもありません。それから、それに続くように始まった、再三に亘る、以前にも増しての更なるテロ行為実行をほのめかす数多くの脅迫等など、そして遂に、イラク戦争へとなってしまいましたが、その都度、街の警戒度は増し、緊張感の張り詰めた毎日が続きました。そんな特別体制の中でも、一般市民は日常生活を殆ど普段と変わらずに送れたのも、やはり、この国の、そしてこの街のパワーを人々は信じ、また信頼しているからに他ならないと思います。

私の住まいは、マンハッタンの中でも特に賑わった地域にあり、ビジネスと劇場やホテル等が立ち並ぶ繁華街を隣り合わせに控えた高層建築アパートのなかにあります。眺めや立地条件など文句はないのですが、やはり、度々にわたるテロに対する警告のビラを、ロビーにエレベーターの中にと見るにつけ緊張したものでした。特に高層アパートビルはテロリストの次の標的と言う情報が流れたことがあり、かなり緊張したものでした。

戦争等一応一段落とみられる今でも街は、以前よりすでに始まっていた不況のせいもあり、ビジネス等まだ尚、元気だった時の様にはまだまだ戻っていませんが、世界中からやって来る観光客の活気も少しずつ戻りつつあるようにみられます。劇場の多いブロードウェィも以前の様ににぎわい、世界の高級店が揃う5番街もマディソン街もショッピング客で溢れる日も近いことが感じられます。

数多くあるミュージアムについては、入場者の数が減ったり、企業や政府団体からの寄付金等も以前のように集められずで、予定していた新築、そして改装計画の変更やキャンセル等が相次いでいるようです。深刻な経営難に陥っている現在の状態から、早く脱却して欲しいものです。週末にはたいていどこかのミユージアムで過ごしている私には特に寂しい限りです。

ニューヨークでなければということはなかったのですが、私はむしろ、サンフランシスコのアートカレッジを87年に卒業した時、日本に戻り、大好きな東京でインテリアデザイナーとしての第二の出発を始めようと思ったのですが、、、、、

あまりにも、日本の業界は其の当時、私の方向性と違っていました。何とか私の場所を創りたかったのですが。その夢叶わず、そして2年後に再びアメリカへ、今度は、以前のアメリカ留学時代の知り合いのデザイナーのいたニューヨークにしました。この私の決断は間違っていませんでした。この街には私が欲しかったもの全てがありました。

世界の文化のるつぼと言われている街の躍動感、価値観の多様性、などなど、他のアメリカの都市等では見ることの出来ない特殊性に溢れた、非常に魅力のある街でした。

まるで、ヨーロッパに居るようでもあるし、時には南米やアフリカをさまよっているような、又、アジアの街を歩いているような気持ちになれるのが、たまらなく新鮮で、私のデザイン感覚を快く刺激してくれます。文化や世代を超えた感覚はとても、ユニークで、クリエイティブな世界を存分に楽しませてくれます。今では、私にとって、ニューヨークでなければ、というのが本音のようです。

私が小学生の頃、父からプレゼントされたピンク色のレコードプレーヤーとアメリカの音楽の入った赤いソノシートには、確か“金髪のジェニー”、“草競馬”等が入っていて、そのソノシートが擦り切れるほど、聴いたこと等覚えています。最初にA、B、Cを教えてくれたのも父で、毎年夏休みには徳島のOSグランドでディズニーの映画を観た後、西新町にある経済会館の地下にあったレストラン(今でもあるのでしょうか?)でフルコースを妹と楽しませてくれたのも父でした。

そうした父でしたから、我が家には、外国の雑誌、写真、本等が色々とあり、日常の食生活でも父は洋食をとりわけ好んでいたようでした。60年代中頃に建てられた我が家は父が設計したもので、当時としてはとてもモダンなデザインで廊下を出来るだけなくし、ひろいリビングルームを中心に間取りを考えた、とても斬新で機能的なものでした。建築士でもなかった父は独学で住宅専門誌等で研究をしながら自分で平面図だけでなく、外観の側面図まで引いていたのを思い出します。その当時小学生の高学年だった私は、何度も何度も図面を食い入るようにみながら、その完成した家を想像し、楽しんだものでした。

今では全て、徳島での遠い昔の懐かしい思い出です。

それから、今、40年余りが過ぎ、家の様子も時代とともにだいぶ変わりました。

そして父も8年前に、私とニューヨークの街を歩くことも叶わぬままに、逝ってしまいました。ただ、今でも母はこの家が大好きで、父の思い出と一緒に一人で住み続けております。

今に思えば、私がこのように日本を遠く離れてアメリカに渡り、インテリアデザイナ-としての職業を選ぶようになったのも、その父の影響が潜在的に作用してわたしを、ここへ、そしてこの職業へと導いて来たように思えてならない今日この頃です。


また、城東高校は、戦後の満州の引き上げ者であった父にとっての、初めての教師としての勤務校だったと聞いております。



『薫風の学び舎』

城東35回 津川 佶樹


春の風に乗って流れてくる沈丁花の香りを感じると、必ず思い出す風景があります。

それは合格発表前日の城東高校です。新しい生活への期待に胸を膨らませながらペダルを漕ぎ、正門前に着いた時の風景。閉じられた校門の脇に咲いていた沈丁花の花達。薄曇りの空の下、そよ風に乗り、私の鼻孔を心地よく刺激した沈丁花のあの香りを、卒業してから二十年近くも経つ今でも鮮やかに覚えています。

あの沈丁花は今でも在校生達には春の訪れを告げ、新入学生達にはその花言葉の通り「栄光」ある人生を祝福するがごとくに優しく迎えているのでしょうか。

あの正門から入った正面にあった体育館は私達の在校中に取り壊され、今の体育館が建てられました。その二階で行われた瀬戸内寂聴さんによる創立八十周年記念講演を憶えています。

その体育館の一階で三年生の夏休みの間、城東祭でクラスで出演する「真夏の夜の夢」の準備に追われました。ステージに配置する背景画を作成している時、ふと開けた窓から流れ込んだ真夏の風と体育館のマットに染み込んだ汗の臭いに妙な感傷を抱いたものでした。あの体育館も取り壊され、私達が三年間を過ごした学び舎もリニューアルされるとのこと。後輩達には新しい校舎で沢山な想い出を作って欲しいと思います。

同じ年の秋、眉山が紅葉で色付き始めた頃、受験前の出陣式として沖の州海岸で、ファイアーストームを行いました。桂先生、安友先生から旧制高校の寮歌を教わり、クラスメート達と円陣を組み、雨の中で寮歌を声が枯れんばかりに歌いあげたあの日。安友先生の「己を信じ、友を信じ、担任を信じ、いざ行かん!」の言葉は今でも耳に残っています。

木枯らしと共に受験シーズンが到来し、それまで鍛えてきた筈の自分の学力がいかに貧弱であったのかを思い知らされる日が続きました。それでも落ち込むこと無く、毎日が輝いていたのは、素晴らしい仲間達と校舎に染み込んだ歴史の重みがあったからでしょう。

あれから二十年。鮮烈な青葉が街並みに初夏の訪れを告げ、水田の苗達も爽やかな風と戯れる季節が再びやってきました。

今では三児の父となり楽しい日々を、そして外資系生保の社員として厳しい戦いの日々を過ごしています。「あの時にもっと勉強しておけば良かった」と思うことも少なくありませんが、あの城東高校三年間は今の私を支えてくれる大事なエレメントの一つです。先日、三年間の「渭山」を読み返しました。あの頃の胸に抱いていた情熱。「友」を信じ、「己」を信じ、「担任」を信じて希望と夢に燃えていた三年間が甦ってきました。あの仲間達は元気にしているのでしょうか。私と同じように関東の地で頑張っている友もいます。亡くなった友もいます。視力を失っても、逞しく活躍している友もいます。

徳島の土を踏むことも稀になり、帰省しても徳島空港と実家の往復のみとなってしまいましたが、子供達に胸を張って語ることができる、魂を焦がして三年間を過ごした城東高校をいつの日にか見せてやりたいものだと思います。


創刊9号


【平成13年城東渭山同窓会 東京支部総会レポート】
支部総会幹事 支部会報「藍」編集担当
城東16回 木村 孝
『やはり話題は100周年のこと』


 21世紀最初の平成13年度、城東渭山同窓会東京支部総会は、6月10日(日)、品川の品川プリンスホテルにて、開かれました。

 ご承知かとも思いますが、東京支部総会は毎年、原則として6月の第二日曜日と決まっています。ところがこの時期はどのようなスタイルの会場でもたいへんな繁忙期で、値段も高く、まして足の便の良いところになるとなおさらです。この会場選びが毎年幹事の悩みの種です。今年もいろいろ苦労したあげく、幹事代表の竹口省三君の尽力で、品川、それも駅の前のプリンスホテルと決まりました。

 学校からは新任の平尾俊宏校長をはじめ、4名の先生方、同窓会本部からは上田和子会長他4名、そして、「100周年を祝う会」副実行委員長の高畑宏比氏(城東24回)が徳島よりおいで下さいました。

 そして、特別ゲストとして恩師、阿部健先生、桑内瑠美子さん(城東16回)もお迎えしました。

 まず中村昭博支部長からのあいさつではじまり、行事会計報告、そして承認などを終えたあと、平尾校長先生から、現在の城東高校の近況、城東生の活躍ぶり、新校舎建設のことなどのお話があり、上田本部同窓会長のごあいさつもいただきました。なつかしい徳島の空気をたっぷり味わった思いがしました。

 やはり一番話題になったのは、学校創設100周年を来年迎えるということ。徳島では瀬戸内寂聴先生を「祝う会」の会長として準備中であるということでした。

 会の後半では先に紹介しました桑内さん、彼女は今も現役で活躍中の元宝塚トップスターの瀬戸内美八さんです。徳島からわざわざお弟子さんを三人連れて来ていただき、歌と踊りのミニディナーショーを私たちに披露していただきました。時間は短いものでしたが本物のショーを参加者一同たんのうしました。

 今年の一般参加者は、約100名で、年々、参加する人を集めるのにも苦労しています。これは徳女の諸先輩が高齢になられつつあるということもありますが、何より、若い会員の参加が増えないというのが大きな理由です。

 支部では、何とかこれを克服しようということで、平成6年より、この会報「藍」を発刊し、少しでも同窓会に関心を持ってもらえるよう努力しておりますが、まだ、よい結果が得られておりません。

 この会報をお読みになられたみなさま、今年はぜひ、足を運ばれるようあらためてお願いいたします。

 今年は城東17回生が幹事の中心となって開催予定です。


『縁』

第16回卒業生  金子 充


 1年生の頃、高校はまだ北側に木造の校舎もあり、雑然としていた。木造の校舎の前にはクローバが咲いていた。ちょうど我々のクラスの下が職員室で、大騒ぎをしてドシドシと床の音がする度に担任の大西先生は、さぞ肩身の狭い思いをされた事と思う。

(因みに大西先生のお嬢さんは山梨テレビのアナウンサーをしている。先生からは想像出来ない?チャーミングな女性である。昨年の年末にTBSで、全国美人アナ・ハプニング大賞に出演していたので、知らずに見られた方もあるかも知れない。)

 さて、弓道部の話であるが、1年生の時、現在徳島に居る赤松誠三君がある時、学校で弓の練習をしていた。その時、初めて和弓の美しさに魅入り、弓道の虜になった。当時、弓道のクラブは無く、個人の趣味としてやっていた。そんな時、体育の山本先生が、城南や城北には弓道部があるのに、城東には無いから弓道部を作らないかと、中学から弓道をやっていた赤松君に話があった。クラスの中の岡本君、伊勢岡君がすぐ練習に加わり、自分も入る様になった。仲間も少しずつ増えて、その年、生徒会に申請して、弓道同好会として承認された。13人で、部費は全く無しの状態からの出発だった。当然、高校に弓道場は無く、毎日、放課後になると城山の端にある武道館へ練習に通った。

 2年になって生徒会で、今度はクラブとして承認された。ところが予算会議の時、部費は要らないと言う噂が広まっていて、予算が無ければクラブが成り立たないと揉めていた時、応援してくれたのが、宝塚へ行った瀬戸内美八さんだった。かくして無事、クラブも発足した年、幸運にも、男女共に団体でインターハイに出場する事が出来た。因みにその夏、音体部もインターハイに出場した。

 弓道の大会は山形県酒田市で開催された。船と汽車を乗り継いで長い時間掛かって酒田まで行った。試合は、三人の団体で的に当たった矢の本数で勝敗を決めるのだが、予選の時、度胸があるからと先頭に立たされた。その時、教わっていた作法が違っていたらしく、矢を床に置いた位置が違うと、前面の座に座っている審査員が盛んに注意していた。当初、何の事か理解出来ずにいたら、遂に審査員は席から降りて来て自分の置いた矢の位置を半歩後ろに置き直した。おっとり過ごして来たせいか、今までアガルと言う事を知らなくて、ここに来て始めてアガルと言う経験をした。それからはもう、調子が狂って、所作が早くなってしまって、山本先生が頭を掻いて間を持て!と言うサインを送っているのが虚しく、散々な結果に終わってしまった。女子の団体戦の方は予選も通過し、1戦目まで進出した。後の反省会で、半矢、即ち半数の得点をしていれば、弓を引く形がきれいだったので技能優秀校になっていたと、その時知らされた。今の自分なら当然抗議している所だが、当時は純朴な少年だったので何も言えなかった。

 赤松君は卒業しても、最近まで武道館や高校の弓道場へ後輩の指導に行っていた。私も美大在学中は夏休みなどには一緒に武道館へ指導に行っていた。また同時に、美大志望の受験生のデッサンを見て上げていた。それは日本画の市原義之先輩などからの伝統として、いつもそうしていた。

 昨年開かれた、渭山同窓会の総会では、その時の後輩で21回卒の森(大田)優子さんと19回卒の松丸(高井)光さんが38年振りに、お礼を言いに会いに来て下さった。始め、顔が思い出せず、思い出すのに少し時間が掛かったが感動の出会いだった。その後、21回卒の村上(鵜山)早代子さんと4人で銀座の画廊で再会する事が出来た。

 16回の同級生は結束が固く、よく会う機会があり、食事などをしている。大西先生が退職された年は、14Hの中村敦子さん、岡部禎徳君、近藤公昭君と4人で大西先生を伊豆へ旅行に招待した。2台の車で出掛けたのが、忘れられない思い出になっている。

 同窓会の総会に出席したり、幹事の仕事をした事で、多くの異学年の方と親しくなった。26回卒の戸田浩二君が渭山同窓会の東京支部のホームページを立ち上げてくれている。

“http://www.izan.jp” 是非、書き込み等、活用して下さい。


『人生五十年』

城東高校第二十回卒 片山 正


新年明けましておめでとうございます。

今年は城東高校創立百周年祭の年であります。私事ではありますが、私は一九五〇年生まれ、現在国内の貨物の海上輸送に関わる事業を営んでおりますがご多分に漏れずこの不況に四苦八苦しております。素材産業の不振をもろに受け、小泉首相のいわれる痛みを十分味わっている次第であります。半世紀余りの人生を過ごして参りましたが、我が母校は一世紀を経るわけであります。世の中も二十一世紀に変わり二年目を迎えこの世紀が我々人類にとって、どのようになるか興味津々であります。恐らく我が人生の残りは、二十一世紀のクオーター位までしかないとは思えますがある程度の世紀の流れは見えて来るのではないでしょうか。

私見を申せば、私は人生は五十年を活きれば、後は余生だと思っております。それぞれが自分の思うように活きてきた人生を振り返りつつ残った人生をいかに有意義に過ごすか、又いつ人生が終わってもよいような心の準備の期間であると思っております。ただ、私みたいな凡人にとっては、この過ごし方が非常に難しい事であります。やり残した事の無いよう、あるいは思い残した事のないよう日々を過ごしたいと思っておりますがなかなか思うようにはいかないものです。個々により人生観は違うと思います。五十歳を越えたら余生だなんてとんでもないと思われる方も多々おられましょうし、八十歳になっても百歳になってもまだまだ人生はこれからだと前向きに考えられる方もおられましょうし、幾つになられても青年の気概を無くさられない方も大勢おられましょう。そしてその人生は、きっと楽しく美しいものなのでしょう。 我が母校は、この一世紀の間、新しい活力がどんどん注入され常に若さを保ってきたと思います。先人が造り後輩がこれを守り育んできた、そして新しく創造してきた母校は、これから何世紀も発展し続けて行くであろうと信じております。その為にも、よき校風を守り育てていただきたいと思っております。二十一世紀の新しい幕開けと殆ど同じくして、城東高校の新しい世紀が始まります。これも又、興味津々として、見守っていきたいものです。

青春時代のいろいろな思い出が詰まった母校。普段殆ど忘れかけていたこと(申し訳ない)もこの様な機会を与えられると次から次へ沸々と色々な方への想い、あるいは当時の景色が湧いてでて懐かしく楽しいものです。

昭和四十四年卒城東二十回卒業生の同窓会は、卒業以来、殆ど行われておりません。それぞれが、各方面で活躍されておられるとのお話は耳に入ってくるのですが、この紙面をお借りして一度集まる機会ができればと思っております。本紙をお読みになられた方一度ご連絡下さい。卒業後、30数年前の旧知を暖められればと思っております。

稚拙な文ではありますが、城東高校卒業生の皆様のご多幸をお祈りして終えたいと思います。



創刊8号


【平成12年城東渭山同窓会東京支部総会レポート】

来年は学校創設100周年
新校舎は2004年に完成予定

平成12年度支部総会幹事

城東14回 児島 田鶴子

 20世紀最後を飾る平成12年度城東渭山同窓会東京支部総会は、6月11日(日)、新宿より京王線にて一駅、初台(今や音楽愛好家のスポットの一つになっている)にある東京オペラシティタワー54階の中華レストラン東天紅において開かれました。あいにくの雨模様にもかかわらずに100名の方々が参加くださり、しばし故郷に思いを馳せる懐かしい一日でした。

 本年の幹事役は、城東14回生が担当しました。学校より、浅香校長、松島副校長、他3名の先生方が、また同窓会本部より仁田映子同窓会長ほか一名が、そして恩師として、14回生を担任された天野先生、広島先生がご列席くださり、幹事代表の仁田旦三氏の司会のもと、終始なごやかな雰囲気の中で進められました。

 まず、3年の任期を果たさせた三谷東京支部長より、行事会計報告、ならびに新しい支部長として中村昭博氏(城東17回)の紹介があり、承認されました。続いて、浅香校長から現在の城東生の活躍ぶり、とりわけ、昨年惜しくも甲子園出場を逃した硬式野球部のこと、バトミントン、バスケットボール、空手、陸上、放送部など全国大会に出場するほど活発な部活動が紹介されました。

 松島副校長からは、①新校舎建設計画が進められていること。本年より2001年にかけて遺跡調査、2002~4年に建設予定であること。②学校創設100周年を祝う会を新校舎建設と合わせて2002年、瀬戸内寂聴さんを会長にして開催予定であること。③少子化傾向の現われとして、一学年10クラスを切る状態になっていること、等が報告されました。また、仁田同窓会長からも、100周年記念会が、本部、近畿地方、東京支部、全てにおいて、城東17回生を中心として開催される旨が報告されました。

 恩師として列席くださった天野先生、広島先生は、共にお元気で古希を迎えられ、各々お能とジョギングをご趣味に悠々自適のリタイア生活を送っていらっしゃる近況が報告され、天野先生が席上「高砂」をご披露くださいました。中華料理に舌鼓をうちつつの歓談さなか、NHKのアナウンサーとしてご活躍中の蔭山武人氏がお得意のマイクをとられ、徳島新聞にコラムを連載予定であり、東京支部の同窓生にも徳島への熱き思いを寄せてくださるようとの協力依頼がありました。

 会も大詰め、参加者全員による校歌斉唱、および次回東京支部総会の幹事紹介がありました。15回生の出席がなかった為、平成13年度東京支部総会は16回生が幹事を引き受けて下さることになりました。「今日お集まりの皆さんが一人一名づつ友達を連れてきてくだされば21世紀幕開けの支部総会を200名の参加者で祝えます」との次回代表幹事、竹口省三氏の頼もしいご挨拶で、本年の東京支部総会は閉幕となりました。

 今回の支部総会の幹事回りだった14回生の在学当時は、徳女の名残で男女の比率は圧倒的に女性優位でしたが、今回の総会実現は、ひとえに代表幹事を勤められた仁田旦三氏と谷崎忠人氏、他男性陣のご尽力によるものでした。希少価値たる城東OBに実力とチームワークの素晴らしさを、感謝と共にご報告致します。

 また、今回報告されました新校舎建設計画には幹事担当の14回生は各々に感慨ひとしおの想いでした。我々が在学中に建設されつつあったコンクリートの新校舎(現校舎)もまもなく取り壊され、さらに新しい校舎が建設予定であるとの報告に、過ぎし歳月を否応無く痛感させられた次第です。「ずいぶん遠くへ来たのもだ!」と思います。が反面、私たちの本質は変わっていないのではないかとも思います。人格形成途中の多感な10代後半の3年間は、私達の血肉の一部として、これからも折りにふれ原点を思い出させてくれるでしょう。同窓会が、今度とも互いに励ましあい、勇気を与え合う場として発展されんことを願っています。

 最後に、今回の支部総会を前にして召天されて真鍋嘉代先生(英語科担当)に、主の慰めがありますよう、お祈りいたします。


【城東高校近況】

城東 新世紀への発進

副校長 松島 孝昌


 東京支部の皆様にはますますご清栄のことと存じます。

 二十一世紀を迎え、本県の教育界も改革に向けて大きく動き出しました。一昨年三月に、「教える教育から一人一人の学びを創造する教育へ」を基本理念に、県教育振興基本構想の中間まとめが発表されました。その具体的施策として、多様な科目の選択制、中高一貫教育や単位制の導入などがスタートしました。入学者選抜制度の見直しも検討中であります。

 このような中で各高等学校も、それぞれ特色ある学校づくりに取り組んでおります。今の若者が夢がないとか、目標を持たないといわれています。そこで本校では、生徒に地域社会との交流を通して、自らが将来の社会の中でどのように生き、どのように貢献していくかを考えさせ、その生徒の将来像(夢)の現実を支援するための活動を展開する「ドリカムセミナー」を計画し、昨年の十月から実施しております。このプランは、進路研究・進路設計のための体験的、実践プログラムを提供していくもので、生徒が主体となって活動するものです。生徒には好評で、新聞にも大きく取り上げられました。

 おりしも本校は、2002年に創立百年を迎え、同年から校舎改築が始まります。現在のグランド(西側)に、体育館を含む新校舎が建設され、2004年4月から新校舎を利用します。その年に現校舎(東側)を解体し、新グランドを整備する予定です。すでに設計が完了し、新聞に完成イメージ図とともに掲載されました。教室棟は四階建てで、通気性や採光の向上を図るために斜めに配置されます。本館棟は事務室・職員室・特別教室などが入る四階建てで、体育館棟は図書館・食堂・多目的ホール・柔道場・大小アリーナなどを備えた五階建てとなります。特に目玉となるのは多目的ホールで、400名収容の自動収納式座席(階段式)を備えたもので、座席を収納するとアリーナとしても利用できるものです。これは、同窓会館として皆様に利用していただきますが、学校行事や地域社会にも広く開放したいと考えております。

 このように、城東高校は今、輝かしい新世紀へ向かって新たな発進をしようとしています。東京支部の皆様、ぜひ一度ご帰郷していただきまして、母校の姿を見にお立ち寄りください。皆様方のご健勝をお祈りいたします。


【本部同窓会の近況】

城東は今も城東

同窓会会長代理 城東17回 鈴木 綾子


 「二学期の始業式のとき、校長先生が章くんのこと話丁てくれたよ」と、ピアノのレッスンに来られた愛らしい後輩がいう。「どうして校長先生がうちの息子のこと知ってくれとん?」と尋ねると、夏休み中に掲載なった徳新の記事「生きる勇気伝えたい・十月米国で遺作展」を紹介しながら話されたとのこと。なんて優しい校長先生なんだろうと感激しました。そしてお礼に、息子が闘病中に制作したCG
(コンピュ-タ・グラフィックス)作品のポストカードを届けてもらったのが、浅杏校長先生との出会いとなりました。

昨年四月二十八日「城東高校創立記念日に息子の体験を」と思いがけなくも講師にお招きいただいたのです。今の高校生にどんな話がフィットする
のか全く自信があり支せん。ピアノの生徒のふたりの女子高校生に「どんな人に魅力を感じるの?またどんな生き方

がいいと思う?」と聞くと「うーん。自分らしく・・一生懸命に生きる人・・かな」と返ってきたのです。最近ときに問題の多い年代だげどやっばり城東、前向きで真剣。それなら大丈夫かなとほっとして、ありのままに話きせていただくことにしました。

 三十四年ぷりの母校の体育館は、とても広くて立派でした。着席した千二百人もの生徒が、果たして私のようなおばさんの話を聞いてきれるかどうか心配でした。でも、みんな顔を上げているんです。男チも女子も―生懸命聞いてくれているんです。私にとってはあっという間の―時間でした。

 おもしろくない「生と死」がテーマでした。グラフィックデザイナーとして、二十五歳という青春真っただ中で急性白血病と診断され、東京の病院で一年五ヵ月間の闘病。しかしいつも希望を持って「僕にとって絵(CG)を描くことは生きること」と病魔に立ち向かい、自ら人生のクライマックスを個展というイベントで飾ってこの世を旅立ち、遺作が念願の海を渡ったこと。言葉は通じなくても感動が伝わり「芸術に国境はない」ことを実感したこと等々。

 「お礼のことば」と生徒会長の男子生徒が丁寧におじぎをして「とても感動しました。これからどんな壁にぶつかっても、今日の話を思い出すと乗り越えられるような気がします」といってくれました。

 私の方こそ感動でした。仁田同窓会長はじめ17回の同級生も来て下さいました。新世紀を担う後事たちと語り合い「城東は今も城東」と何ともいえないうれしさと感激に包まれた、創立九十八周年の記念日となりました。        以上


帰省

城東27回 小山 直稔


  城東渭山同総会長様、いかがお過ごしでしょうか。二十世紀から二十一世紀への「世紀越え」を新たな希望と決意をもって迎えられ、それぞれの目標に向かって輝かしい日々をお送りのことと推察申し上げます。

 私は、一九七六年(昭和五十一年)三月に城東高校を卒業して以来、郷士徳島を離れて久しくなりますが、今回、九年ぶりに年末年始を故郷で過ごしました。これまで、五月の連休や八月の盆休みには、二年に一度の割合で帰省し故郷の有り難さを感じておりますが、年末年始の徳月は、寒さと静けさに慌しいさが加わって、春・夏の時期にくらべ、一段と郷愁を感じさせられました。

 年明け早々の一月四日、城東高校卒業後も辛うじて音信を保っている同級生の一人と数年ぷりに再開することにし、実家のある阿波郡市場町から久しふりに徳島本線(ディーゼルカー)を利用して徳島市内に出掛けました。その一週間ほど前、妻子とともに空路帰省し、徳島駅を経由した折には余り気付ぎませんでしたが、一入改札口を出て駅周辺をゆっくり見渡すと、その変わり様に改めて驚き、二十五年という時の流れを感じました。

 高校生の頃、クラプ活動での駆け足コースとして、また駅前商店街への通り道として利用していた徳島城公園に足を運び、初めて「鷲の門」をくぐりました。一九七八年の夏以来、久しぶりに域山(渭山)にも登りました。高校一年生のときクラス担任をされた森本康滋先生が、城山の原生林について熱心に説明されていたことを思い出し、「分布の最も大きい『ホルトノ木』はどれだったかな」と目で探しながら山上の神社へと続く石段を登りました。季節が冬の真っ只中ということもあるでしょうが、高校生の頃に見上げた「城山の茂み」にくらべて、木々の勢いは衰え、原生林全体が乾燥しているような印象を持ちました。城山を下りたところで見かけた看板によると、気候対策の一環として「保水工事」を施行中とのことでした。

 同級生と合流する時問まで少し余裕があったので、新町商店街へも足を伸ばしてみました。徳島市内でも老舗とされ、東新町通りのシンボル的存在であった百貨店がなくなり、跡地が公園と地下駐車場関連施設となっていたのには驚きました。一巡りすると、紺屋町通りも含めて、記憶に残っている店舗は数えるほどかなく、ここでも時代の移り変わりを目の当たりにしました。詩人・石川啄木は、「ふるさとは遠くにありて思ふもの」と感慨を述べていまずが、私にとっても、城東高校の三年間で慣れ親しんだ徳月の街並みや風景は「思い出」になってしまったようです。

 徳島駅改札口で目当ての同級生と合流し、彼の案内で駅近くの居酒屋に入りました。当然のことながら、私の「思い出の地図」には、居酒屋・飲み歴についてのデータは一切なく、異郷での成人を迎えた自分と、長く郷土に暮らす同級生との違いにある種の寂しさを感じました。二人で「小上がり席」に座り、飲食をともにしながら、数年前の盆休みに城東高校正門前の喫茶店で会って以降の近況を披露し合い、遠ざかる思い出を手探りながら高校生時代の思い出や、他の同級生の消息について話しました。途中から、もう一人の同級生も加わり、その夜はごく小規模ながら「地元での同窓会」が賑やかに行なわれました。改めて見合す互いの容姿容貌に経年変化を忍めながら、その語り口にほ変わらぬ懐かしさを感じ合いました。「楽しい時間は短い」の譬えどおり、気が付けば日付も既に変わって暫く経つという頃合になっていました。二人の同執生は、片方の細君の車に迎えられて家路に就き、私は無駄になったJRの乗車券をポケットに入れて徳島駅前からタクシーに乗りました。

 城東渭山同窓会東京支部では、役員の皆様を始め、母校の先生方、会員の皆様方のご理解とご協力により、毎年、支部同窓会が開催されておりますが、地元徳島においては、合同同窓会は元より、各卒業年次ごとの同窓会も開催される機会が少ないと聞き及んでおります。故郷を遠く離れていることが、却って故榔や母校に対する思いを強くし、活発な同窓会活動に繋がっているのでしょうか。私は青森県から都内に転居し早四年目となりますが、東京支部の一員でいられることを感謝しつつ、支部活動の隆盛と会員の皆様の益々のご健勝をお祈り申し上げる次第です。
         (以上)


南房総でのセカンドライフ

城東11回 岡山 勝敏


私は21世紀の正月を南房総、御宿の太平洋を臨む高台の一画で迎えた。昨年六月、永年住み慣れた埼玉県を跡にして南国情緒豊かな御宿町ヘ移り住んだ。ここは大手デベロッパーが十年前、御宿町の後背にある丘陵を切り崩し五十万坪、千五百区画のリゾートを造成したものである。その広大な規模からみて当時は相当な自然破壊も行われたのではないかと思われたが、現在では周囲の自然との調和もとれ、街並みも整い落ち若きのある住宅街になっている。このリゾートは既に六百戸が入居済みで、内二五十戸が定住者で占めている。しかも定住者の大半は六十歳以上のリタイヤ組であることも注目に値する。

 さて、ここで私のセカンドライフを過ごす新天地を御宿に求めたいきさつと将来、リタイヤ後はリゾートで暮らしたいと考えている諸兄に多少の助言になれば幸いと経験談を述べてみたい。

 私は今年十月で満六十歳を迎えるが、聖人孔子のいう「五十にして天命を知り、六十にして耳従う」の心境にはほど遠く煩悩に明け暮れているのが実情である。第二の人生を過ごす器は手にしたが、器に入れるべき中身をについては今後の課題として時間の許す限り探し求めていきたいと考えている。

 故郷の徳島を離れて四二年、大学在学の四年を除き三六年間を勤務地の埼玉県で過ごした。平成十一年、三十四年間のサラリーマン生活に終止符を打ち退職した。在職時代に取得した技術

士の資格を生かして技術士事務所を自宅に開設した。現役時代培った自動車製造技術を開発途上国発展のため少しでも役立てばと思い政府海外援助のもとで技術指導の仕事をはじめた。これで定年後の働き甲斐は何とか見出したものの、生き甲斐は今一つ心の底で癪然としないものが残っていた。

 実はここ十年来、リタイヤした後のセカンドライフをどこで、どのように暮らすべきか人生設計について人並み模索し続てきた。五十三歳過ぎからは子供の頃、吉野川で船遊びをした思い出の郷愁も断ちがたく海辺の暮らしへの想いが募り年にニ、三度各地のリゾート地を訪れた。埼玉県在住時代、家族構成の変化に応じて既に二度、家の買い替えをしており今度は終の棲家になるであろうとの思いを込めて候補地選びに入った。選定は雑誌、新聞、ホームページを参考にしたが最後にほ自分の目で確かめることにした。西は浜名湖から伊豆、富士山周辺、そして東は房総半島まで家内、娘を同行し車で駆け廻った。その結果セカンドライワのイメージは徐々に固まっていった。海辺のリゾートでマリンスボーツに興じ、新鮮な魚介類を賞味し、菜園作りに汗を流している姿が次第に本物のように思えてきた。そして海釣りや船遊びのツールを確保するため五十五歳の手習いで四級海技士免許を取得した。一歩一歩の積み重ねが最後に大きな成果を生むという予感があった。あとは新天地をどこに求めるかが最後の課題となった。

 平成十二年は年初から今年こそ永年の夢を実現しようと心に誓い準備に人った。まず最初は家族の同意を得ることである。安内は事前のネゴが功を奏し即同意したが、次女は大宮市の会社勧めのため会社をとるか転居をとるかで難航をきわめたが最後は一家揃って行くことに同意した。候補地は前述のイメージに合致したものから生活利便性を考慮して選定しま家族の意見を人れほぼ南房総の御宿に決定した。ここは前述の通り、定住者も多いことから日常生活面でも問題なさそうとの判断がつき決定に拍車がかかった。桜が咲き始める頃、新聞広告、インターネットを駆使して物件探しに奔走した。その結果、某不動産会社のホームページに手頃な物什が見つかり早速交渉に入づた。現物を確認したところ平屋の3LDKで、築十年ながら外観、内装共に手入れが良くOKと判断した。価格交渉も無事終了し契約を完了した。一方、二十年住み慣れた埼玉の現住宅は幸運にも近所の知人に売却が決定し、わずかニヶ月で買い換えが纏まった。かくして十年来の夢は家族の協力のもと、平成十二年六月遂に実現したのである。

 以上が私のセカンドライフスタートまでの物語である。ひとつ言えることは十年間、願望を思い続けることができれぽ大抵のことは実現できる。道は険しくとも自ら選んだ通には悔いは残らないということである。


「きれい」と思うこと

城東17回 中村 昭博


 城東高校を卒業し、茫洋と35年が過ぎましたが、特筆することほありません。

 10前の一時期に、犬一匹、ウザギ15匹、鶏3羽、文長10羽、その他禄亀、ザリガニ、金魚、ハハムスター、おたまじゃくし多々と我が家は大家族を構成していましたが、現在は柴犬とウサギが一匹づつとなっています。漱石先生の猫ほど賢くありませんので辛辣な文明批評はできませんが、ピールも飲みませんので溺れ死せず、犬齢を重ねて今年11才になるこの柴犬は、太目の自分の健康管理用として飼っており、当然朝

の散歩は家族の中で私の役目となっています。我が家の位置する団地の周りには梨畑と少しですが田んぽもあり、遠望すると雑木林も眺められ、なんとか自然らしきものが身近に残っています。

 柴犬を飼い始めたある春の早朝、いつもの通り出勤前に散歩に連れて行き、排泄後満足そうな表情をうかべる柴犬を横目に見ながら、しゃがみこんでその後始末をしようとした瞬間に、畦通に咲く雑草が目に入りました。この時どのような心境であったかは今となっては思い出せませんが、その雑草を「きれいなあ」という素朴な感情で眺めたことは確かです。「え、まさか」と自分が自分自身に驚くとはこの事です。

 私は戦後間もない生まれですから、小さい時にはとんぼ、フナ、つくしに代表きれる郷愁を誘う自然と、台風が来れば自宅を浸水させる迷惑がられる自然が、当たり前のように併存し、生活が自然に馴染んだ中で育ちました。ですから自然に親しむという特別な感覚は、持ちようがありませんでした。むしろ中学、高校、大学と大きくなるにつれ、興味が多方面に移り、自然に背を向け、自然を遠のかせたというのが実感です。そしてそのまま年月は駆け足の如く過ぎ11年前に至りましたが、その間、時々ふと思い出したように何処か速くの自然を求め、移動した距離と費やした時間を引き換えにして、「ああ緑っていいなあ」と自己満足に浸った時のみ自然が目の前にありました。ところが、その雑草を目にしての「きれい」という新鮮な実感は、しぽらくしても消えることなく何か胸に迫ります。小さい時の座標軸への回帰ではありません。大袈裟に言えば生とし生きるものへのいとおしみです。

 しかしながら生活者としての私は、迷惑な自然を克服し便利な生活環境を作ることが経済成長であるとの論理の側に立ち、そして今も立ち続けています。結果として、公共事業とやらで、実家では台風が来ても浸水の心配はせずに済むようになり、その一方で商業主義の下、あんこ屋、釣道具屋、味噌屋ほ残っていますが、駄菓子屋も、豆腐屋も、醤油屋も個人商店は殆ど無くなり、塩田が埋め立てられ、故郷の鳴門がだんだん味気ない町並になっていくのを、ただ傍観するだけでした。

 日本人はなんでもかんでもすぐに一辺倒になる習性をもっていると、さる文化人が評していますが、的を得た指摘と思います。まあこれからは、見果てぬ夢を追い求める生活者の立場は放棄せぬまでも、必ず手の届く目の前の、つい忘れてしまいがちな自然の営みを、きれいなものとして丁寧に見つめようと考えています。青空を背景にした白木蓮そしてこぶしを見上げると白と青のコントラストが何とも言えません。

 喜び、怒り、哀しみ、楽しみそして羡望の感情は起伏が大きいために、たくさんのエネルギーを必要とします。しかしぺンペン草と蔑まれているナズナを思いやり、抜いてもすぐ生えて茂り黄色い花を咲かせるカタバミを芝生の敵とせずに、そして柴犬に踏みつけられても赤い花をつけるカラスのエンドウを何気なく眺め「ああきれいなあ」と感情の小さな起伏を起こせられれば、何と省エネで一日が変化に富むことでしょう。

 出家して三十一文字に詠嘆を託す程枯れることが出来ぬならば、「まあこんなもんか」とやけっぱちにもならず、250ヤードに挑み、二日酔いにも負けず、柴犬に文学新人賞を取らせるべく教育し、雨の日も早朝散歩を日課として暮らすのみです。



創刊7号


【支部総会レポート】

小原、森本両先生を迎えて大いに盛り上がる

城東13回 大津 栄子

平成十一年度の城東渭山同窓会東京支部総会は、六月十三日(日)新宿の「銀座アスター」において百八名の参加者で盛大に行われました。

幹事の役回りは城東十三回生でした。学校と本部より浅香校長、仁田会長はじめ六名の参加をいただき、又恩師小原和夫先生、森本康滋先生をゲストにお招きし、現NHKエグゼクティブアナウンサー蔭山武人氏(十三回生)のユーモアあふれる巧みな司会のもとに進められました。来賓紹介のあと、支部長、校長、本部会長順に挨拶があり、副支部長の音頭で乾杯をいたしました。

浅香校長のお話では、四年前に発足した硬式野球部が大活躍をしており、春の大会では初めて決勝戦に進出したとのこと、甲子園出場も決して夢ではないことをお聞きし、私達の頃とは隔世の感があり、とてもうれしく、母校生徒の活躍を皆で応援したいと思われました。

昭和三十四年から四十四年まで在職なさいました小原先生、三十二年から五十二年まで在職なさいました森本先生からお話を伺いました。両先生とも、永遠の青年の風貌をそのまま残し、今なおお元気で情熱を燃やしていらっしゃる様子に、私達の人生の先輩のモデルとしてとてもたのもしく、励まされる思いでした。小原先生は、新しい教育の場での苦労話を、昔の口調そのままに若々しくお話下さり、又森本先生は、去年に引き続き、地球環境保護活動、とくに先頭に立って進めていらっしゃる「高速道路に木を植えよう」の運動の様子を、ヴィデオを使って大変詳しく熱心に説明して下さいました。私達の生徒時代に、山歩きと自然について、沖縄の森について語って下さった口調と情熱は少しも衰えることなく、ライフワークを語る先生は青年そのものでした。今年もカンパの募金箱を回しました。おおぜいの人達がお金を入れていましたので、少しは活動の助けになったでしょうか。

 中華のお料理も、特別サービスをして下さり、とても豪華でおいしいものでした。 それぞれのテーブルで話の花が咲き、別のテーブルの友や恩師のもとにかけつけて旧交を暖めたり、記念撮影をしたりしているうちに、時間はあっという間に過ぎ、最後に恒例の徳女、城東の校歌を斉唱して支部総会を終了いたしました。当会のために徳島や関西方面からも列席して下さった方々もいらっしゃいました。ここで皆様に深くお礼を申し上げるとともに、又次回も楽しい会になりますよう、幹事一同願っています。


【徳島より】

チャレンジ城東

校長 浅香 寿穂


東京支部の皆様にはお変りございませんか。

さて、本校は二〇〇二年に百周年を迎えます。同年から校舎改築が始まり、二年後には新校舎に移る予定です。教育改革の中で、本校の伝統を礎にさらに磨きをかけた施策をと同窓会の皆様ともども計画いたしております。

年度当初に、生徒たちに「戦え城東」を提唱しました。いささか過激で時代錯誤な感じがすると思われるでしょうが、本校の校訓とされる校歌にうたわれている讃え・築き・まもる城東であるためには、戦わなければと考えました。城東生が、めまぐるしく変化・発展し続ける新世紀の世界の担い手として、世界の人々と手を携え、夢や希望に向かって、それぞれの人生を逞しく生きていくためには、何よりもまず一人ひとりの個の確立がなされなければならない。それには自分自身との戦いが必要であろう。また、何事かへの挑戦は新たな道を切り開くことになるだろうと。これからの日本は、先進国に範を求め、模倣するだけでは立ち行かなくなります。未だ経験したことのない事柄に積極的に挑戦するチャレンジ精神が求められています。私は城東生に、所属集団の同調圧力や横並び意識を克服して、自分の意見を積極的に発表し、新しい道に挑む勇気と自由闊達な進取の気性を期待しています。さらに、本県における城東の立場を考えれば、組織のリーダーとしての資質も必要です。つまり「まとめ役」をそだてていくことが、本県のみならず広く国際社会において世界の人々から信頼され、国際的な組織をもリードできる人材を輩出することになると考えるからです。

昨年度の文化祭で城東ミュージカルを上演しました。県教育委員会の教育文化推進事業の一環として助成を受け、二年間かけて実施されたものです。今年の三月二十四日に徳島市文化センターで開催された「城東高校演奏会」(十年ぶりの定演です)で、オーケストラ部の演奏会とあわせて再演し、好評を博しました。

また、一昨年の秋、十四名のフランスのサンジョセフ高校生が二週間程本校に滞在しました。このことから姉妹交流として今年の三月十五日から三十日まで、二十名の城東生と引率教員をルアーブル市のサンジョセフ高校に派遣し、まじめな態度が絶賛されました。

東京支部の皆様、ご帰郷の際には是非母校にお立寄り下さい。


変わりゆく徳島から変わらない心で

城東渭山同窓会副会長

城東19回 川 添 眞理子


東京支部の皆様、こんにちは。御健勝にて御活躍のことと存じます。

二〇〇二年を迎え、徳島県も随分と様変わりして参りました。この三月には高速道路が愛媛県川之江東JCまで開通し、これで四国四県の県庁所在地がハイウェイで結ばれました。また、一九九八年に開通した明石大橋によって、大阪まではバスで二時間三十分で到着です。我々の年代が学生の頃、本州に車で行くにはフェリーを利用する以外に手段がなかったのにと時代の変遷のスピードの速さをつくづく感じています。眉山の下には「阿波踊り会館」が昨年オープンし、毎日有名連による阿波踊りが繰り広げられ、ロープウェイも新しくなりました。私達の母校のすぐ近くにあった動物園も移転し、よく昼休みに抜け出して遊びにいった児童公園の観覧車も今はありません。

何より、明治三十五年に創立された母校が、二〇〇二年には百周年を迎えます。そしてもうすぐ校舎が建て替えられようとしています。今度の新校舎は空調などが検討されきっと近代的な建物になることでしょう。

我々の年代の当時の母校は今よりも運動場は狭くて体育祭のときなどは、本当にこんな狭いグランドで行うのかと思いながらも、それはそれなりに楽しかった思いがあります。丁度、第一次ベビーブームの最後の頃に産まれた私達の時代は、教室の後ろの壁ギリギリまで机が並び、床はギシギシと音を立て、教室の扉はガラガラと重い引戸で、遅刻常習犯の私は先生が黒板に向かっていらっしゃる時をねらってこっそりと忍び込もうとするのですが、このガラガラ、ギシギシに行く手を阻まれ、黒板に向かって後姿の先生に「川添だろう」と即座に言われたものでした。

思い出せば一つ一つが懐かしく、多感な年頃を過した高校生時代ほどキラキラした時代はないような気がします。同窓会を開けば皆さんも同じように、何十年ぶりかで会った人でも、すぐその場で高校生当時の男子、女子に戻ることができる、それは中学時代とも大学時代とも違っていて言葉に尽くせない青春の日々。きらめく思い出の時代。

 時は移り、世の中の価値観も変わり、街の風景も母校の校舎も変わって行きます。けれど母校は青春の心の故郷。いつまでも卒業生の胸に熱い思いとともに生き続けるのです。


雨の中に

徳女33回 井澤 久子(旧姓 中村)


また激しく雨が降ってきた。庭の桜の枝が荒々しく振り回されて揺れている。あの子はどうしているかしら。

一昨年(八月十六日月曜)の午後、病院へ行っての帰りのこと、バス停でベンチに腰を掛け、回数の少ないバスを待っていると、パラパラと、思いがけない雨が降ってきた。この頃は変なお天気で、何時もこうなので。気管支が弱くこじらせてすぐに肺炎になるので、雨に濡れるのがこわい私は、タクシーにしようかなと思ったが、屋根もあるのでそのまま腰を掛けていた。と、目の前の、頻繁に車が行き交う六車線の車道の中央分離帯の植木を跨ぎ、左右を用心深く窺っている白い装束の人がいる。八十八ケ所詣りの装束だ。なんて無謀な人なんだろうと見ていると、一寸の隙を見つけてこちらに走って来た。私の横に立って雨を凌ぐ様子。杖には白い木綿の靴下何段にもくくりつけられ垂れ下がっている。四足分くらいありそうだ。顔を見上げると、思いがけず爽やかにすっきりとした少年だった。驚いた私が「どこから来たの」と声をかけると、あっさり「東京」と答えた。「バスに乗るの」「いえ、歩きます」。そうか、このバス停で雨宿りなんだ。少年は「十八番まで行くんです」と言って、頭陀袋から何度もめくったらしいお寺の写真入りの大きな本を取り出した。「宿はあるの」「野宿です」。頭陀袋には畳んだ水色のビニールがくくりつけられているが、しかしそれだけの簡単な出で立ちである。ちょうど孫の年頃だと思った。「何年生?」「三年生です。僕の学校は五年まであるのです」「専門学校?」と聞くと、頷いて、「二十六日まで行きます」と言った。孫と同じ年だ。躰は孫より少し小柄で、顔は何だか幼い感じがした。もっといろいろ話したいと思ったのに、いつもはなかなか来ないバスが近づいて来た。私は「頑張ってね」と言っただけでバスに乗った。

席に腰を下ろして身を落ち着かすと、どうしてあの少年に何かしてあげなかったのだろうと思う気持ちがいっぱいになり、引き返したくなる程悔やまれた。お遍路さんには接待ということがある。子供の時、祖父に連れられ、鷺の門前のお堀端でお遍路さんが来るのを待ったことを思い出した。乳母車にお遍路さんにさしあげる「目菓子」と言っていた、指の通る丸い穴の開いた、麦粉で作った菓子をいっぱい袋に入れて持って行った。どうしてあの少年に何かお接待をしてあげなかったのだろう。無性に何かしてあげたい気持ちが募った。孫の年頃の子だったもので、年のせいという訳でもないが、胸がいっぱいになり、思うように話せなかった。いつもなら待つのが長いバスが早く来たのも恨めしく、またバスに乗った自分が悔やまれてならない。

あの子は今どのあたりだろう。この雨の中、どうしているだろう。桜が激しく揺れ、激しい雨音をたてているのを見ていると、胸がいたむ。

夏休み中にこのようなことをする若者がいることへの驚きとともに、孫と同じ年の子の、清々しい顔をした少年の瞳を想い、あり得ぬことだろうが、どうぞまた何処かで会うことができますようにと、涙ぐむような思いで祈りながら、雨風に激しく揺れる桜を見ていた。


伊豆の旅

徳女42回 小澤 稔子


近畿みどり会(徳女42回生の会)のお誘いで伊豆の旅に参加いたしました。何しろ卒業以来のことで誰が来られるのかも知らず、果たしてお顔が分かるかしらと不安でしたが、お会いした途端に霧散霧消すぐ学生時代に戻って花が咲き、韮山の反射炉まであっと言う間に着いてしまいました。大砲を百門も造った先人の偉業もそこそこに修善寺へ。

独鈷の湯そびらに淡き冬桜 源頼家公の墓に詣で、何度打ち直しても死相の現れる面しかできなかった面打師の話しを思い出しながら1日目のお宿嵯峨館着。聞きしに勝る立派な宿で四千坪の所々にある露天湯のどれに入ろうかと迷うほど、すっかりお大臣の気分に浸りました。翌日は浄蓮の滝の前で記念撮影、いよいよ天城越えです。

木洩日に瑠璃を深めて冬揚羽 川津七滝を一気に下り、ループ橋に感嘆の声をあげつつ、下田は唐人お吉で有名な了仙寺と宝福寺に哀れな人のよすがを偲びました。国の重要文化財の岩科学校、壁を塗る鏝で艶やかな女人や千羽鶴を描いた左官の長八美術館を精力的に見学。

長八や大見得切りて鵙猛る 蘭の里へはバスで十分程、小高い丘の広々とした植物園ではいろどりも豊かに咲き誇る蘭の数々、そのあまりの芳香にすっかり酔ってしまいました。

吊り橋に気宇壮大や蘭の里 最終日の今日は堂ヶ島の遊覧船に乗る予定でしたが生憎、風が強くて欠航、急遽象牙美術館に変更して地元の桜葉業者の山元氏が十数年の歳月をかけて収集された、主に中国美術品の宝石画に目を奪われ、正面に富士山を望む三津港に出て錨をおろした豪華客船のスカンジナビア号に乗船。

冬霧の洗い上げたる美男富士

舳に立ちて富士引き寄する小春凪

メインダイニングルームで洋式のランチに舌鼓をうち名残りを惜しみつつ又のお逢いする日を約して今回の伊豆の短いようで長かった旅を終えました。黒一点参加の谷様のご主人も終始笑顔で和やかに楽しく旅を盛り上げて頂きました。戦中、戦後の厳しい時代を生き抜いて今ミレニアムを迎えようとしていますが、ふり返ると何だか夢を見ていたような気がいたします。これからも前向きに明るく生きてゆきたいと思います。皆さんご一緒に頑張りましょう。

50歳にて

城東19回 村瀬 幸一


先日、私は50歳の誕生日を迎えた。会社の早期退職優遇制度を利用できる年齢に達したのでフリーエージェント宣言を友人知人たちにメールを送ったところ〔半ば冗句で〕自重を求める返答が相次いだ。この五十年はなんだったのか…漫然と生きてきたような気がする。会社ですごしてきた時間が一番長く、現在の会社に入って二十六年になり、経過を綴って見ることにする。二十四歳の時に神戸に本社があるオール商会《通称》という外資系(ノルウェイ)商社の船舶代理店部門にはいり主にトランパー《不定期貨物船》のオペレーションを担当した。仕事内容は日本に入港する外国船の入出港の官庁の手続き、検疫所、税関、入管、海運局など、水先案内、タグボート、綱取り、警戒船、荷役業者、検数会社、鑑定人などの手配、給水、バンカー《燃料》の手配、乗組員の交代、病院の手配、船のドック入りの手配、商社との荷渡し打ち合わせなど多岐にわたっており、その後外国客船の入港も増え、二十七歳ぐらいでサガフィヨルドというノルウェーの客船を神戸で初めて担当し、その後いろいろな客船をハンドルした。

たとえば、パールオブスカンジナビア、ロイヤルバイキングの三姉妹船(スカイ・スター・シー)ロイヤルバイキングサン、クイーンエリザベス二世、ニューアムステルダム、日本船でパシフィックビーナス、オリエントビーナスなど。今年三月にはロッテルダム六世号が長崎、鹿児島、大阪、東京に初寄港する。また外国客船が入ったことがない石垣島の港に、オーシャンパール号を初めて入港させるべく交渉の為十五年ほど前石垣島を訪れその後沖縄本島も頻繁に仕事、プライベートで訪れている。

入社後、転勤などで次のように住居を変えた。

神戸勤務 一九七四
神戸市灘区石屋川
横浜勤務 一九七四
横浜市港北区大倉山
大阪、神戸勤務 一九七六
神戸市灘区篠原南町
神戸市須磨区北落合『結婚』一九七八・五
神戸市須磨区妙法寺 一九八四
横浜勤務
横浜市港南区上大岡 一九八六・三・一
東京勤務
川崎市中原区井田杉山町 一九八八・三・一
川崎市中原区井田中ノ町 一九九三・九・一
東京都品川区西五反田 一九九八・四・三
《現在》
入社時三〇〇名ほど社員がいたが、八十五-八十六年の円高不況、バブル後の不況でいろいろな部門がリストラされ六十名に減少している。同業界においてはなくなった会社のほうが欧州系では多くこの十数年は外資といってもアジア系が多くなっている。

三十才過ぎで労働組合を結成、全海連に加盟したのも大きな出来事だった。

神戸で結婚したが子供には恵まれなかった。妻は結婚後二度入院したが現在は至って元気であり、私も三十才で肝炎を患ったが妻と同様元気であり、その源は石垣島のウコンをのんでいる為と思っている。

神戸の妙法寺でマンションを買ってすぐ転勤になり、その後は賃貸派である。まだ引退出来る歳ではないが、そのうち徳島にベースを構え、第二の故郷神戸、第三の故郷沖縄を季節ごとに住み替えしたいと望んでいる。


夢の中へ

城東21回 森 優子


昨年のクリスマスイブ私は東京ミレナリオの会場に向かいながら、城東高校以来の友達に電話した。仕事で忙しくしている彼女にイルミネーションのすばらしさを伝えたかったのだが、電話から聞こえてきたのは、「今徳島におるんよ。脇町に帰っとんじゃよ」と、はっきり脇町弁であった。二十五年振りに実家でお正月を迎えるらしい。(徳島のお正月ってどんだっただろう。そう言えば二三日前、先輩も帰省するっていってたなあ)と、母のお雑煮の味も思い出せない自分に気付き、目に写る華やかな風景とは裏腹に、私も親孝行しに帰らなければいけないかなあ。と妙にしんみり考えてしまった夜だった。

最近つくづく、徳島はいいなあと思う事がある。(渭山同窓会はもちろん。年のせいだと言われるけど)吉野川の豊かさ、ピンクの色に煙る眉山の春、学校帰り徳島公園でお堀を見下ろしながらいつまでもおしゃべりしていたあの頃。遠くで操車場の音がしていた…。

何事にも真直ぐに向き合い、よく笑い、泣き、傷つく事もあったけれど、詩を読み、絵を描き、悩みながらも毎日フワフワと生きていた気がする。

卒業から三十年過ぎた今、子供達も巣立ちの時を迎え、私も自分自身の人生を生き始めている。五年程前から劇場アナウンスやコンサートの司会等仕事としているが、同時に、語り、朗読劇の勉強も始め、時々舞台に立たせてもらっている。「言葉に魂を。心を伝えるのよ」と先生にくり返し叱咤され、もがき苦しむ時もあるけれど、想像力をかき立て、全身全霊で表現しようとする時、あの三年間のフワフワした毎日が無駄ではなかったと実感し、徳島の自然が、人が、私を育ててくれたと確かに思う。何故かいろいろな場面をはっきり思い出し感じることができる。駅前の「白馬」のお好み焼きのにおいさえも…。

開演前、スタッフとああでもないこうでもないと打ち合わせし、慌しくしている舞台裏にいると、やっぱり現場が好きだなあと浮き浮きしてしまう。「開演十五分前カゲアナどうぞ」の声に、大きく深呼吸し、マイクのスイッチに手をかける。「一期一会」と言い聞かせ、心を込めてお客様に話しかけよう。

稽古の帰り、ミスド(ミスタードーナッツ)で女子高生に混じって熱く夢を語っている私達は、やはり現実離れをした不思議なおばさんかもしれない。お好み焼きからドーナツへと変化はしたが状況は同じなのだから驚いてしまう。(いや、もっとパワフルになったと思う)

いつも応援して下さる方々に育てて頂いて、増々夢の中へ入って行ける幸福に感謝しつつ努力する毎日である。


徳島からの 近況報告

城東23回 藤田 善史


昭和四十七年城東高校卒業。昭和五十三年に徳島大学医学部を卒業し、眼科学教室に入局した。当時の眼科学教室を主宰したのは故三井幸彦教授であったが、そこで医師としての基本的な心構えと科学的な思考を学ぶことができた。当時の三井教授は大変厳しい方であったが、わずか直径24?の眼球内にある水晶体を、手術用顕微鏡を使用し取り出す白内障手術は、まさに神業であった。

その時から眼科手術に魅せられた私は、徳島大学での十年間、小松島赤十字病院の六年間、開業後の四年間、手術とともに過してきた。もちろん、手術が自分の思うように行かなかった症例も多くあるが、その方たちにも誠心誠意、医師としてつくすよう努力をしてきたつもりである。

小松島赤十字病院に勤務していた時、白内障手術は五日間の入院が必要であった。しかし、開業してからは入院せずにできる外来手術とした。入院は患者さん本人にとっても家族にとっても大きな負担となるし、米国では白内障手術は外来手術とした。手術術式は、以前のような水晶体を全部取り出す方法ではなく、超音波を使用し、水晶体を砕き吸引する新しい方法である。患者さんにとっても侵襲は少ない。水晶体を取り出した後、二つに折りたたんだ人工の柔らかいレンズを眼内に入れる。入れたレンズはすぐに元の形状に戻る。ただし、手術用顕微鏡を使用した大変細かい作業であるため、正確に短時間で手術を終えることが大切である。

手術後、眼帯はせずに、目を覆う特殊な眼鏡をかけ、三十分程度リカバリールームで休憩し、自宅に帰ることになる。帰宅後しばらくは見えにくいが、翌日起床後、来院する時には木々の形、信号の色もはっきりと見えるようになる。現在、年間二千五百例の方の白内障手術をしているが、自分でものを見ることができた喜びの声を聞くことが私にとって最大の喜びである。今年二月にはミャンマーに白内障手術の指導に行く予定であるが、大学卒業後、研修をしていただいた三井教授のことを思い出しながら、これからの若い眼科手術医の育成ができたらと考えている。




創刊6号


支部総会レポート

真鍋嘉代先生、山川邦直先生、森本康滋先生の三人をお迎えして139名、たいへん盛りあがりました

城東12回 坂本 弘


 平成十年度の城東渭山同窓会東京支部総会は、六月十四日(日)新宿・京王プラザホテルにおいて、一三九名の参加者で盛大に行われました。

 幹事役回りは城東12回生で、川角喜一君の司会で進められ、本部会長・支部長挨拶に続いて、浅香寿穂学校長によって、母校の近況等についてのご報告がありました。

 小生の在校時代と異ったスポーツの隆盛や、文化面での数多くの活躍ぶりを伺うにしたがって、母校の発展を頼もしく感じた次第です。

 本年も城東での在職期間の長かった真鍋嘉代先生、山川邦直先生、森本康滋先生をゲストに迎え、また城東卒の現役の先生方、同窓会本部から妹尾会長をはじめ、多数の方々のご出席をいただきました。

 支部総会は各テーブルでの和やかな歓談のなかで、京王プラザホテルの緑川総料理長の"解説付き"の料理をいただくという趣向もありました。

 圧巻はゲストの森本先生による、ミニ(?)トークでした。

 『エコロジー緑化』と題して、先生のライフワークである地球環境保護活動を語っていただきました。植樹にあたってのご苦労や、樹々が根付いた様子をOHPを使っての具体的なご説明は、三十分を超える熱弁となりました。そしてカンパの募金箱を廻して、ほぼ予定されたであろう金額(?)を『エコロジーの森を創る会』に協力するという、大変な盛り上がりとなりました。

 限られた時間の中での押した時計を気にしつつ、最後に"お楽しみ福引"を行い、全員で恒例の校歌(徳女・城東)斉唱をして、支部総会を終了しました。

 ところで、このような紙面で身内(12期生)を誉めるのは、如何なものかとは存じますが、敢えて……。

 小野南海子さんを中心とした、女性幹事団の団結力と行動力、加えて熱意には、良妻賢母を育成する伝統の校風が生きていることを、小生には実感させました。会場が名前の通った場所であるがゆえのプレッシャーをはね返す人集め=広報活動。"お楽しみ福引"の景品に瀬戸内寂聴大先輩の『源氏物語(巻一)』の直筆サイン本二十冊を確保。お土産には荷物にならぬ小さい物を…等々。

 ご出席いただいた全ての方々にお礼申し上げると共に、地元や関西からも、空席の目立つ会場にしてはならぬ、と駆けつけてくれた同期生にも感謝しております。

 素晴らしい一日をありがとうございました。


徳島より 『校風は今も健在にして』

校長 浅香 寿穂


 原生林に覆われた雄々しき渭山を仰ぎ、夕焼けを背にしたやさしき眉山をながめながら、生徒たちが生き生きと通学する姿は、今も変わりはありません。

 同窓会の皆様には、各々の職域におかれまして何かとご多忙の毎日かと存じます。日頃は母校と後輩のためにご支援ご高配をいただき心から感謝を申し上げます。

 本校全日制過程は、現在三十一学級です。高校の適正規模は最大二十四学級と考えられていますから、マンモス校ぶりが一目瞭然です。今年度の三年生は十一学級あり、学年全体の生徒の進路・学力の多様化は年毎に進みつつあります。

 本校は本県有数の進学校でありますから、教育の重点目標の第一は、学力の向上においています。しかし、ただ単に進学のみが目的ではなく、望ましい人間教育を土台にして、その上に進路実現をめざし、生徒の生徒にわたる自己実現を果たす教育が大切だと考えております。勉強さえできれば他は黙認するというのではなく、高校生として当然の生活習慣や規則正しい生活のリズムを身につけることが学力向上の基盤になっていることを、本校は長い教育実践の経験の積み重ねから学び、確信をもって日々教育実践をしております。

 本校は徳島市の中心部に位置し、前身が女学校ということもあり、市内普通科六校の総合選抜制で、生徒は各校平均化されたといえども、落ち着きと穏健さがあり、スマートで自由な校風は今も健在です。本校の動向については、地元のマスコミが逐一報道してくれ、全県的に注目の的となっております。

 十月十五日から二週間余り、本校に十四人のフランス人高校生がやって来ました。これを縁に彼らが通う私立サンジョゼフ高校と姉妹校を結び、交流を深める予定です。

 また、同窓会、PTAの方達が県に陳情してくださったお陰で、十一年度から校舎改築に向けて始動する運びとなります。

 今後母校と後輩にいっそうのご支援をお願い申し上げますとともに、同窓会のご発展を祈念し、母校の近況の報告をもってご挨拶といたします。


『感動を元気の糧に』

城東渭山同窓会副会長
城東46回 中川 裕子


 昨秋、リッカルド・ムーティはスカラフィルハーモニーをつれて来日されました。「運命の力」から「ローマの祭」まで、繊細で力強く情感あふれる演奏に、ホールは熱い感動に盛りあがってゆきました。その後知人の紹介で楽屋でムーティさんにお会いする事ができました。楽しい時間はあっという間にすぎてロビーに出るとバッグのないのに気付きました。私は急いで引き返しノックしてそっと扉を開けますと、奥の方で数人の紳士が輪になって打ち合わせの様子でした。「あの……」といいかけた私に、何とムーティさんがさっと近づいてきて「おお、バッグなら私が知っているよ、おいで」と廊下いっぱいにゆくオーケストラの群れから守ってくれるかのように、私の肩をしっかりと抱いて一緒に保管室まで往復して下さったのです。

 この世界的指揮者の何というご親切!

 さりげない優しさに、嬉しさのあまり茫然としながらも頭の下がる思いでいっぱいになりました。

 さて私達は地球という星に生まれて空や海、山や川、花鳥風月など人の力では絶対創り出せない大自然の恵みによって生かされて来ました。その美しさ壮大さは、田園・モルダウ・九十九里浜・等々の詩や音楽に歌われ、また絵画となって心を豊かにしてくれています。自然こそ病める現代人の癒しの根源なのです。

 この半世紀は自然破壊に明け暮れた時代でした。先進諸外国では謙虚に反省し、近自然工法で公共事業を進めていますのに、日本では長良川河口堰の悪評を認めながら、ふるさと徳島の吉野川にも可動堰を造ろうとしているのです。もちろん多くの県民は、江戸時代から二百五十年機能してきた(すぐれもの第十堰)の価値がわかっているので、可動堰はいらないと言っています。私も市民の一人として、この運動に参加して思うことは行政に逆らうことの難しさです。驚き悲しみ憤り、空しくなっても、遠く険しい道のりを、挫けず合法的平和的に歩んでゆかなければなりません。こんな時、一見何の関係もないような音楽の感動、前述の人から見ればたわいない出来事などが、どれほど心を潤し勇気を与えてくれるか知れないのです。感動を元気の糧として、自然に人々に、少しでもご恩返しができたらと願っています。

 東京支部の皆様、清流吉野川が永遠でありますようどうぞ応援して下さいね。


『四国八十八ケ所巡拝・心の旅』

徳女38回 大栗 敏子


 三年前の四月十五日朝、私たち夫婦と徳島出身で主人の旧友の三人は、第一番札所霊山寺の前で深く深く拝礼していた。

 徳島市交通局主催の「四国八十八ケ所霊場お遍路の旅」のスタートである。

 皆、これから始まる十二泊十三日の行先きに心躍る期待と微かな不安な気持も残していた。しかしその僅かの不安も-弘法大師と同行二人-きっとお大師様が守って下さるであろうと言う安らぎに打ち消されてもいた。

 四国に生を享けた者にとって八十八ケ所巡りは「一生に一度だけは…」と言う願いがいつも心の隅にあった。その巡礼の第一歩を発心の道場…第一番霊山寺から踏み出したのである。八十八ケ所はお大師様ゆかりの地に定められていて、その修行の程が偲ばれる遺跡が各所にある。第二十三番は薬王寺、薬に頼っていた古来から厄除けの寺としても親しまれ、私も子供時代母に連れられて詣でたなつかしい想い出がある。高知三十六番青龍寺に参詣した折り、先年中国旅行で脚を運んだ西安の高台に立つ同名青龍寺で、高僧恵果阿闍梨と修行された大師の事が強く甦った。

 室戸岬にはその風景が(空海)の名前の由来にもなった二十四番最御崎寺がある。 又、主人が入隊した事のある善通寺には第七十五番が建立され信仰を集めている。 こうして恙がなく揃って八十八番大窪寺に到達した時には、自然に涙が溢れ出していた。

 徳島駅前の旅館で巡拝の疲れを癒した翌朝、巡拝の総仕上げとして、唐から帰国したお大師様が開創された高野山金剛峰寺に参詣する。奥の院は老杉や桧が茂る中、20万基を超える供養塔が並び、弘法大師の足下に眠れば極楽往生ができると言う信仰に依るものとかで、歴史上の人物も多く見出す事ができると言う。

 お大師様と同行二人の御加護に守られて、願望を達成した三十名の一行は、充足感に満ち満ちていた。

 その夜は宿坊光明院で元気を取り戻し、翌朝、全国に別れて行く巡拝の方々と名残りを惜しんだのであった。

 いま、私の部屋の壁には、大窪寺で拝受した主人と連名の結願の証が輝いていて、各寺で朝夕勤行した事が、昨日のことのように思い出されてくる。  (旧姓 原)


『中国での悲惨な時代を生き抜いて』

徳女41回 三木 陽子


 私が女学校を卒業したのは昭和二十年三月でした。其の後家庭の事情により、奉天に行きました。満鉄に入社し四月に団体で行き、奉天の親類の家に着きそこから奉天技術員養成所に勤めました。奉天は大都会で、日本人の家が整然と建ち並び、外地の様な感じはなく、其の上食料品でも何でもあり大変驚きました。六月迄は穏やかでしたが、七月に入り戦争が厳しくなり、ソ連の空襲の噂が聞かれる様になりました。

 女、子供の疎開が始まり、私も八月一日に女二人子供二人と同じ会社の人と、汽車に乗り宮口に行き日本人の家に疎開し八月十五日の終戦を知りました。九月の始めに奉天に帰りました。住んでいた家には行けず、別の社宅に住みました。

 奉天にはソ連軍が侵入し略奪や、満人の暴動等で大変危険な状態で、家の窓や入口には板を貼り厳重に警戒しました。女は一歩も外に出ない様にし、其の上頭を坊主にし男装をし、いつソ連兵が入ってくるか分からない不安な日々を一ヶ月ばかり過ごしました。運よく恐い目にも会わず隠れておりました。敗戦を境にして日本人の立場が逆転し大変厳しい現状となりました。

 十月頃より少しずつ治安もよくなり、外に出られるようになりましたが、会社も収入も無く食料品やお菓子等を仕入れ、町に出て売り、又持物を売ったりして日本に帰る日を待ちました。その間男性は使役として働かせ、日本が築いた工場の機械や資材、個人の財産を毎日貨車に積み全部ソ連に持って行きました。

 冬になると0度以下の寒さになり、奥地にいた開拓団の人々が来ましたが、飢えと寒さの為に死亡する人が出、遺体をお寺の庭に穴を掘り埋めておりました。

 戦争の悲惨な現実をいろいろと見て来て、此の世の中で二度と戦争はしてはいけないと強く肝に命じました。言語に尽くせぬ苦労をしましたが、お陰様にて二十一年七月に無事日本に帰ることが出来ました。本当に幸運に恵まれて何よりの幸でございました。

 五十数年たった今まだ満州の日本人孤児の方々の姿を見ると、感慨無量で胸が一杯で大変悲しい思いがいたします。

 七十年過ぎた今、元気で好きな事が出来る事は、何にもまさる喜びでございます。これからも一日一日を大事に楽しく過ごしたいと願っております。


『初個展を終えて』

城東19回 松丸 光


 高校時代は後藤春潮先生に、日本画の初歩を教わりました。

 美術部では、油絵受験を目指す先輩のデッサンや、文化祭の折に、色紙に墨でバラをさらさら描く筆の動きに見とれていました。けれども好きなだけで続けていた私が、絵画とは何だろうという最初の壁に、突然つき当った苦しい時代でもありました。

 教室は図書室の裏の扉のない一角でした。イーゼルを立て、県展の為試行錯誤している私に、小原先生や阿部先生はよく声をかけて下さいました。

 その頃、職員室の前のタイプ室の窓からは、新校舎建設の様子がよく見えました。ゆっくり地面に白線が引かれ、杭打ちが始まったかと思うと、あっと言う間に空間が埋まってしまい、タイプ室の窓まで圧迫を感じたものでした。平面から一挙に空間を支配する様子は鮮烈で、絵を描くのもこんな風に、最初に完成図があって、後は仕上がっていくだけならよいのにと、建築家が羨ましくもありました。

 タイプ室での石膏デッサンも、動きや比例に捕われ、深い形の意味がわからず、白黒の調子の幅の乏しいものでした。枚数をこなせば何かがわかるのではないかという思いだけがありました。

 その思いを支えたのは、小原先生が聞かせて下さった市原先輩の事だったかもしれません。先輩はラグビー部で活躍しながら、合間の時間をみつけては蜜柑を描いていると、「心眼が開けて中味まで見えてくる。」というのです。デッサンの本に書かれている事よりも強烈な言葉でした。

 単純に未体験な事に憧れ、そんな境地に少しでも近付きたいと夢中の高校時代でした。

 卒業後いろんな事がありましたが、今はゆったりと、見る人の心が気持ちよくなるような絵を、一枚一枚を大切に描き続けたいと願っています。

 昨年(一九九八年)十一月に銀座の「ギャラリー21+葉」で、多くの方々のお力を得て私は初めてのテンペラ画個展を開催する事ができました。私の作品を見ていただける事はもちろん、会場が新しい出会いの場になった事も嬉しい事でした。又、渭山会では皆様にお目にかかれる事を楽しみにしています。


『出身地』

城東20回 依田 政雄


 「出身地は、どこですか?」そう尋ねられることが多々ある。「出身地」という言葉、あまり好きではない。辞書には、「生まれ、育った場所」と出ている。僕は、「元本籍は長野県、生まれは福井県、高校を卒業したのは、徳島県です」と、答えることにしている。父の勤務の関係で、二十回近くも転居した。小学校は、三つ変わった。中学校は、二校だった。高校で初めて、入学した学校を転校せずに、そのまま卒業することが出来た。それも高三の時、一年間アパート住まいをして。

 徳島県に転居したのは、中三の二学期だった。小松島中学校に転入し、卒業した。中学と高校を卒業しているので、書類等で「出身地」の記入欄がある時は、ためらわず、徳島県と記載している。

 多感な青春時期を送った城東高校の三年間は、正に僕の青春の原点であった。入学して柔道部に入ったが、男子生徒が少なくて、廃部となってしまった。二年になって、新聞部に入った。卒業アルバムには、弁論部員としておさまっている。

 二年の時、生徒会長をやらせてもらった。生徒会担当の後藤善猛先生、生徒の良き理解者だった。僕の長男も、高校の時、生徒会長をやった。現在中二の長女は、生徒会副会長をやっている。不思議な思いを感じている。

 僕も四十八才になった。長男は、今年大学を卒業、二男も専門学校を卒業、二人とも家から巣立って就職する。四月からは、妻と長女の三人暮らしになる。

 ここ十年程、仕事で多忙な毎日だった。過去を振り返り、昔を懐かしむ心のゆとりを失っていた。二月下旬には、転勤の予定である。職種も変わるだろう。この原稿を依頼されたのも、一つの契機となった。卒業アルバムを取り出して見ると、懐かしい顔が並んでいた。一年担任、仲尾衛先生。二年担任、山川邦直先生。三年担任、中滝順義先生。親友の西條、竹治、河野。生徒会や部活を一緒にやった、川内さん、礒貝さん。三年間、片思いしたKさん。etc、etc。高校を卒業して以来三十年、実家がある訳でもなく、一度も徳島の地を訪れたことはない。しかし、僕にとって徳島は心の故郷、「心の出身地」と言える。恩師、級友が暮らしている。そしてたくさんの、淡い青春の思い出が、そこにあるのだから…。


『あの日』に帰れるなら

城東21回 村上 早代子


 もし帰ることができるなら、私の『あの日』は城東時代でしょうか。あの頃からもう随分と年月が流れたのに、今も自分の中にあの頃と同じ自分を見つけることがあります。年を経ても魂?は変わらないのでしょうか。親や周囲の人達に暖かく見守られ、好きな絵を描き、友と笑いころげ、他愛もない事で悩んでいたあの頃が、いとおしく思い出されます。あの頃のみんなは今、どうしているのでしょうか。

 現在私は、都立技術専門校でパソコンの講師をしています。山田洋次監督の『学校III』の舞台になった学校で、少しその存在が知られるようになりました。再就職での仕事ですが、もう十五年ほどになります。現在はハンディキャップをもった方たちのクラスと、キャリアアップのための講習会などを担当しています。私にとっての仕事は、当初は自分自身の経済的自立が目標でしたが、現在はいろいろな人との出会いを楽しむ余裕を持てるようになりました。仕事での出会いが自分を育ててくれていると実感しています。当面の目標は、出会った人たちとのホームページによるネットワークづくりです。最近「仕事を辞めたら徳島に帰ろうかなぁ」と思い始めているのですが、インターネットの普及で、徳島に帰っても東京で得た仲間とのコミュニケーションや、情報収集に困ることもなさそうです。

 徳島には毎年夏に帰省しています。私は脇町の出身で、実家に帰ると、私の原風景とも思える吉野川を毎朝のように散歩しています。新聞で目にする吉野川河口堰の問題は、今気にかかることのひとつです。

 今回お声かけいただいたことで、改めて故郷の事、これからの事を考えるきっかけになりましたことを、感謝いたします。


『29年という年月について-』

城東21回 久次米 義敬


 高校を卒業してから二十九年になります。

 よく個人的回想では「色々あったが、アッという間に過ぎた」という言葉で語られるのですが、二十九年という年月、近代史の流れでみるとどうなのでしょうか。

 フランス革命からワーテルローの戦いまで、ビスマルクが首相に就任してからカイザーに解任されるまでの期間が、我が高校を卒業してから今までとほぼ同じ年月です。

 その間、何が起こり何が終わったのでしょう。前者は絶対王朝が崩壊して「自由平等博愛」の時代になり、校舎はプロイセンという一小国が大ドイツ帝国にまで興隆しました。更にそれぞれの同年月の後、フランスは二月革命前夜、ドイツは第一次大戦に敗北。大ドイツ帝国は滅び、ワイマル共和国になります。

 日本の例を出せば、西南戦争から日露戦争まで、米騒動から現憲法の施行までの期間が同じく二十九年間です。

 歴史のうんちく話が目的ではありません。歴史的にみると二十九年間というのは「色々あって、アッという間に全てが変わる」歳月であるという事実を述べたいのです。

 さて、私たちの高校時代。当時日本は高度成長の真っ只中。だれも今日の経済破綻を予測しませんでした。戦争といえばベトナム戦争でしたが、勝利したベトナムからあんなに多くの難民が出るとは…。ソ連の革命五十周年パレードを思い出しますが、そんな国もう存在していません。

 高校二年の夏休み、ソ連がチェコスロバキアに侵攻したというニュースをその時の残暑とともに覚えていますが、あれから二十九年。ドプチェクさんはその間、営林署の一職員として働いていたのです。

 ベルリンの壁が崩壊(こんなことが私の生きている間に起こるとは思わなかったヨ)。チェコスロバキアに春が戻り、復権なったドプチェクさんが官邸のバルコニーから集まった民衆に抱擁のポーズをとった時、私は涙が止まりませんでした。

 江戸明治と両時代を生きた福沢諭吉は、「一身ニシテ二世ヲ生キル」と詠嘆した由。あれから二十九年が経ちました。