城東渭山同窓会

同窓生のコミュニケーションの場を提供する

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創刊1号

創刊1号

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創刊によせて

城東渭山同窓会東京支部長
城東13回 太田 宏美

 平成5年度の支部総会において御承認いただいた会報第1号を無事発刊できることとなり、大変嬉しく思っております。

 支部長就任以来、この伝統ある同窓会の維持発展のために、微力ではありますが私なりに努力して参りました。第一は会員名簿のデータベース化の実現です。現在死亡会員、転出会員を含め2084名の会員がパソコンに登録済みです。第二は情報の収集、交換、伝達の基地として随時ご利用いただけるよう私の事務所を当分の間同窓会事務所とすることにしました。

 世界はまだ混迷と閉塞状況の真っ只中にありますが、家族の価値の見直しや民族の自立が求められ、同じ価値観や伝統を共有する欧州連合の結成など「心の時代」と呼ぶべき新しい動きが見られるようになっています。同窓会は時代が異なるにもかかわらず、同じ学校に籍を置いたというだけで一体となりうる不思議な存在で、今の時代感覚に相応しいもののように思います。今回も、超多忙の寂聴さんに、一面識もない私が単に同窓生であるという縁のみでインタビューを申し込み、快く応じていただけましたのも、同窓会の持つ不思議な魔力の成せることなのでしょう。

 高校の同窓会は地縁と学縁の二つの縁による結びつきという点で大学や小中学校の同窓会と異なります。故に、先輩、後輩の関係も予測できないような多様な可能性を持ち得るはずですが、縦横無尽に交流し、親睦を図るには年一回の総会における出会いのみでは明らかに情報不足です。多方面で活躍の会員が互いにその存在を知り、刺激しあい、世代を越えて活動領域や分野を異にして交流しあえるならば、会員の一層の発展と母校の発展に寄与できるとの信念がありました。

 交流の核ともなるべく「人」に関する情報の提供場所として会報の発行を計画したものです。会報の性格づけや内容については未だ十分な検討がなされておりません。今後の活動を通じて充実化を図り、同窓会の基盤として確立していただけますよう切に念じております。

 最後に、この会報発刊に際し、編集をお引受けいただいた木村孝さん(16回)のご協力に感謝し、また資料提供などのご協力をいただいた皆様方に厚く御礼申し上げます。



「藍」の発刊を祝う

城東渭山同窓会会長
徳女41回 長尾久子

 太田宏美支部長様はじめ役員の皆様方の並々ならぬご熱意とご協力によって、会報の発刊の運びに到ったことを心より御祝い申し上げます。

「赤いリンゴに唇よせて」、この可愛い「リンゴの歌」は、戦後の私たちの気持ちを明るく和ませてくれました。昭和24年新学制移行で男女共学の城東高校となった時は、愛唱歌として「青い山脈」が巷に流れ、人々に希望を運んでくれました。それから12年後の昭和36年4月に徳女同窓会と城東高校同窓会の合併が実現し、「城東渭山同窓会」が発足いたしました。この時に、私達が口ずさんだ「上を向いて歩こう」は、広く世界の人々にも流行していきました。徳女同窓会東京支部は、大正11年5月5日に誕生したと記録されております。合併後は、城東渭山同窓会東京支部として発足し、馬屋原絹江様が初代支部長にご就任され、支部の発展に御尽力されたと承っております。その後も、歴代支部長様はじめ、同窓の皆様方の熱心なご努力によって今日の東京支部があると存じます。同窓会の隆盛は、創立90余年の歴史の重みと伝統を誇る母校愛の賜物で、誠に有難く存じております。

 さらに、魅力ある同窓会づくりを目指して、同窓の皆様方の絆をより大切にされ、会報発行を通じ会員相互の活躍状況を知り、交流の活性化を図っていただきたいと存じます。

 会報の発刊を心から祝い、城東渭山同窓会東京支部の益々のご発展と、同窓の皆様方のご多幸を御祈り申し上げます。



発刊を祝して

学校長 疋田信正

 このたび、城東渭山同窓会東京支部に、会報「藍」が発刊されますことは喜ばしく、心からお祝い申し上げます。

 時は異にするものの、学び舎を同じくして、人生において最も活力の旺盛な青春の一時期を、ともに過ごしたもの同士が、より友誼を深めるための場を持つことは意義あることです。今後、会員一人ひとりのものとして、この会報を通じ、よき交流が図れるよう念願しています。

 1902年、徳島高等女学校が誕生し星霜を重ねること91年、たえず真理研究の場として、また人格陶治の場として、一貫した教育活動を展開し、堅実で清新な伝統や校風の樹立が図られてきました。時代を担う有為な人材を育成する教育理念としては、「時代を越えて変わらないもの」と、時代とともに変化していくもの」を統一してとらえる必要があります。

 つまり、創立から今日までの長い歴史を通じ、培ってきたよき伝統や校風を受け継いでいくとともに、科学技術の進歩、国際化、情報化、高齢化など社会の変化の中で、主体性の維持のために求められる判断力、新たな発想を産み出す根源となる思考力や創造性を育成することが課題となっています。

 アメリカの社会未来学者、アルビン・トフラーが「過去の文化を伝達するだけでは、未来の中で行きていく人間はつくれない」と述べているのも、このことを言い表していると思われます。

 ここに城東高校が、昨年度から取り組んでいる生徒が自ら学ぶ意欲や主体性に考え、判断し、行動できる資質・能力を培うことを目標とした「社会の変化に対応した新しい学校運営」(文部省指定による学校週五日制)についての調査研究や、「個性豊な学校づくり推進事業」の実施は、こうした教育理念の具現化への新しい実践といえます。その成果は、今後の高校教育の方向を左右するものとして注目されるところとなっています。

 城東4回の卒業であります私にとりまして、長い教職生活の最終段階を母校で勤めることができる幸せを大切に、母校発展のため微力を捧げる所存ですので、ご理解、ご協力のほどお願い申し上げます。

 終わりに、この会報の発刊を契機に東京支部の進展が図れることを祈念し、お喜びのことばとします。



東京支部会近況

城東11回 厚井 隆志

 徳女・城東を卒業されたみなさん、徳島を出られて何年になられますか?若かりし日の良き友と別れて5年、10年…、いや50年。月日のたつのは早いものです。学校を卒業して間もなくは同級生に会いたいなどとあまり思いませんが、歳をとるに従って気にかかるようになるものです。

 改めて「城東渭山同窓会東京支部」についてご報告します。関東にお住まいの徳女・城東高校を卒業されたみなさんは、自動的にメンバーになっています。この会の前身は大正11年に第一回が催されたと記録されています。最近は、毎年6月の第二日曜日に総会・親睦会が開催され、徳島城東高校からは校長先生ほか数名の先生、同窓会の本部長なども参加され、当日は懐かしい「阿波弁」が飛び交い、高校時代にタイムスリップし、歳を忘れるひとときを過ごすことができます。

 いままで参加されていない方はとくに、一度試しに参加ください。

 現在、東京支部会は以下のようなメンバーで運営しています。

 城東渭山同窓会東京支部
  支部長   太田宏美(城東13回)
  副支部長   小林洋子(徳女46回)
  副支部長   竹口省三(城東16回)
  会計   瀬尾清子(併中2回)
  会計   高橋輝子(城東14回)

 支部長ほか、幹事は毎年輪番制で担当していますが、徳女は併中時代、城東は昭和35年~40年代が中心です。

 現在、卒業後10年程度までの方の参加が少ないのが実態ですが、一年に一回集えるこの会を、よりたくさんの方々とますます楽しいイベントにしたいものです。(前・支部長)

特別インタビュー

瀬戸内 寂聴 師 徳女36回
戦争の時代でしたが楽しいこともたくさんありましたよ

徳女卒のスーパースターである寂聴師にインタビューすることができました。超多忙ナスケジュールの中いろいろな話をうかがえました。紙面の都合上、学校時代の思い出、それも一部分ですが、お伝えします。

―― 先生は確か徳女36回だと思いますが

瀬戸内  そうね、昭和15年、今から50何年前かしら。あなたが知ってます?「紀元は2600年……」って。その記念の年。

―― 学校の雰囲気はどんなふうな

瀬戸内 場所は今のところと同じはずだし、敷地も変わっていないと思う。赤いレンガの堀がぐるっと囲っていて、広い運動場と、校舎は古い木造づくりでね。 図書館があって、プールももうできていたし、そうそう、裏に確かキリスト教の教会があったわね。学校の周りは静かな住宅地で、先生方の住まいもありました。

 私の家は大工町でしょ、そんなに遠くないのに、毎朝遅刻すれすれ。あのお堀端を走って走って、ピューって走りこんでた。もうたいへん。

 それから、大陸では戦争でしょ。級長って言うか、生徒を連隊体制に編成しましてね。呼び方も軍隊風に、大隊長、中隊長、小隊長っていうようになったの。私は、大隊長だったから、朝、軍歌に合わせて朝礼に全校生徒が集まる時、先頭に立って行進するんです。号令をかけたりしてね。今から思うとおかしいわね。そんな雰囲気でした。

―― それでは、とっておきの思い出といいますか

瀬戸内  そうね。やっぱり満州、朝鮮への卒業旅行かしら。当時は満鮮旅行といってました。満州は今の中国の東北地方です。別のコースで箱根・東京・日光というのもあったけれども、人気は満鮮旅行が圧倒的でした。二週間ぐらいかかって、まず船で釜山に上がって、汽車で京城、平壌を通り、鴨緑江を渡って新京まで行くんです。それはそれは大旅行でしたよ。おかしかったのは、私たちは肩からかける大きなズックの黒のカバンをかけていったんです。スーツスタイルの制服にそのカバンがその頃の通学のスタイルでしたから。向こうの人は、どこの孤児院の集団が旅行しているのかと思ったんですって。

 でも、この旅行も私達が最後。もう戦争していたから、戦前の学校生活の楽しい催しというか、旅行なんかも、私たちの時代で終わり。後の人たちは知らないわけ。

 これは大学でも同じ。私は東京女子大に進学しましたけれど、卒業旅行で京都、奈良めぐりがあるんです。これも私たちで最後。だから、いい時代の雰囲気をぎりぎり最後に味わえたというのかしら。

―― そのほか印象的なことといったら

瀬戸内  そう、事件といったら、やはり2・26事件。学校に入って間もなく、低学年だったと思うけれど、朝礼で、教頭だった田口先生という方が挨拶されて「君たちは学生なんだから、何が起ろうと、学生の本分を全うして勉強すればよろしい……」というような。とても立派な言葉でしたよ。事件そのものも確かにたいへんだったけど、その田口先生の挨拶がとても印象的でした。田口先生というのは学者肌の方で、三浦梅円の研究家で立派な本を出していらっしゃいます。

 たわいないといえばたわいないんですが、「銀狐団事件」というのがありました。私と同じ学年に「銀狐団」というグループがあって、皆さんとても美人が揃っていて、その人たちが夏休みに、徳中(現・城南高校)の男性徒と何人かと一緒に海水浴に行ったんです。それが問題になって。刑事に日記まで調べられたりして、大事件になってしまったのね。今では考えられない人権侵害ですよ。それで私なんかが、それはおかしいじゃないかって怒ったのね。ばかげてると思うでしょう。当時は道で中学生と逢ってもそっぽむいてないといけなかったんですよ。笑っちゃうでしょ。

―― 徳女という学校は

瀬戸内  ひとことで言って非常にレベルの高い学校でしたね。単に徳島の優秀な女性徒が集まっていたというだけでなく、それもありますが、学校のレベルそのものが高かったですね。というのは、私は東京女子大の国専に行きましたけど。全然勉強では困らなかった。つまり、高女時代の授業のおかげで大学でも恥ずかしい思いはしませんでしたよ。

 優秀な先生方が多かったんでしょうね。特に国語には印象深い先生がいらっしゃいましたね。保科千代次先生とか、鈴木イクノ先生、西野八十八先生とか。

 確かに戦争の時代でしたが、私たちの時代はまだ、戦前のいい意味での楽しい学園生活が残っていましたね。

―― では、若い人に

瀬戸内  今の高校と私の高女では仕組みがかなり違っている。私達の時は女学校だったけれど、今は男女共学でしょ。同じように言えませんが、私たちは一学年で大学まで行くのはせいぜい4,5人。今の人たちはほとんどが受験受験でたいへんね。でも、本は読んでほしいですね。受験のためじゃなく自分のために。あの時代に読むのはその後で読むのと同じ本でも、また意味合いが違うと思うから。



近況・雑感

●思い出の徳島弁  たっすい・へらこい・しんだい・どいやし・じるい・くんだら・ごじゃんぽ・ちやかばえる・いがる・ちょけ・かしこい・おぶける・おちゃぶる・げさくな・えらい・ひんける・とろくそ・せこい・ほなけんど・めんどい・はがいたらしい・こがう

※ ちゃんと訳せますか  (選・城東5回 賀川)



『三五会の度』

徳女35回 森本和子

 私達徳女35回の卒業生で関東地区に住んでいる人達は一緒によく旅行をする。徳島の人達の計画してくれる全国同窓会の旅行は毎年一回だは年に数回小旅行をする。

 この1月24日にも伊東温泉のいずみ荘で同窓会を開いた。15人程の人達の中、いつも一緒に出かけられるのはこのところ段々と減って8人か9人かという人数となってしまった。71歳、72歳ともなれば無理はないかと思うが、あの人が病気とか、脚が悪いとか聞く度、明日は我が身かと淋しくなる。温泉宿に着いてもまずはおしゃべりで、湯に浸るのは二の次という有様。病気のこと、家族のこと、世間の話、いくら話をしてもあきるということがない。

 同じ女学校で学んだ友達というので何の遠慮も心配もなく話が出来るのが私達にとって一番のストレス解消法となる。専業主婦も職業を持っていた人も今は第一線を退いた人が多いので、話題にこと欠くかと思うが、なかなかどうして、政局を語り、テレビドラマの批判もするどいものがある。さすが当時の徳女は県下の才媛が集まるところであったと思い出させる。

 伊東の帰路寄った熱海の梅林は梅は三分咲きであったが、商魂たくましい人達からまんじゅう、梅茶のふるまいを受け、梅よりだんごとなった。



『併中卒生のつぶやき』

併中1回卒業生

 私達はヘイチュウ卒業です。名簿の中でも、何となく目障りな学年名は、たった二学年しかありません。

 教育制度変革で生まれた落とし子のような学年は戦車と終戦後の変動の中で、入学と卒業が同一校名でなく、履歴書を書く時はなんとも不便なものでした。

 昭和14年尋常小学校入学。16年太平洋戦争突入とともに国民学校となり20年卒業。その年憧れの徳女に入学したものの、3ヶ月後の7月4日の空襲ですべて焼失。8月終戦。9月の二学期は富田小学校に間借り。不自由な二部制授業。焼失した校舎の復興資金集めのため、演劇で地方巡業。その為のチケット売り、荷札作りの内職等で協力し、新校舎落成!引っ越しは炎天下。富田から机椅子を担いで運ぶ人海作戦で授業を開始したものの、六三三制実施の為、徳女は新制女子高となり、在学中の二学年は併設中学生となって23年、4年卒業。ここに、併中卒が二学年生まれた訳です。これは男性の場合も同じでした。

 23年女子高校入学となったものの一年間だけ。又もや県の教育制度大変革の為、市立校廃止、男女共学、地区制実施となり、市内はスクランブルされ四等分。東西南北に涙で袂を分かった訳です。その為、卒業はそれぞれ城東、西、北高校、市外の人はその地の高校卒となるのです。そのまま残れた人、南に移れた人は幸運でした。西に住所の在った人は、今は幻の城西高校卒で、2年間の高校生活の母校はありません。

 この様に戦争と、教育制度の大変動の中で振り回され揺れに揺れた私達ももう還暦を過ぎました。平和な今を感謝し、お互いに連絡しあい、いたわりあって、同期会、ミニ会と、明るくそして逞しく過ごしております。少しはヘイチュウの事をご理解頂けましたでしょうか?



『雑感』

城東13回 笠谷 隆久

 ふる郷徳島を離れて、早や30余年になる。高校を卒業する時には、他の職業を考えていたが、どういう縁か金融マンになり転勤人生を歩む事になってしまった。通算では東京での生活がずい分長くなったが、これまでに埼玉、広島、山口と地方勤務も経験した。
 転勤というのは、ある一面では生活の本拠が定まらない、子供の教育などなかなか大変なことも多いが、反面、得るものも多い。その土地土地の気候、風土、人情にふれられるし、何よりも得がたいのは人とのふれ合いである。先輩諸氏から『仕事も大切であるが転勤したら、その土地で一人でもよいから真の友人をつくれ』とよく教えられたが、最近、まさにそのとおりだなと思う。かっての勤務地の友人達が上京してくると、よく声をかけていただくが、その際には余程のことがない限り、スケジュールを調整し、食事をしたり、酒をくみ交したりする。勤務している当時の出来事、その土地の近況など話がはずむ、なつかしくもあり、楽しいかぎりである。もちろん、私の方も結婚式などで当地に出かけることもあるが、皆、本当に心からもてなしてくれる。やはり人は大切にしておかなくてはとつくづく思う。もちろん、頼まれることもいろいろあるが……。

 同窓の友も本当に有難いものである。私と同じ卒業年次に、弁護士の太田嬢、アナウンサーの蔭山氏、日本画家の市原氏などがいるが、機会をみて年に何度か酒をくみ交わす、タイムトンネルをくぐり、高校時代の思い出話をしたり、自分達の近況など話題にこと欠かない。またいろいろ相談にのってもらうこともある。職場内との付き合いと違い、住む世界が異なるため話の幅も広く、利害関係もないので、本当にリラックスしたなごんだ時間が持て、私自身得るところも多い。私にとってこうした付き合いは、貴重な財産の一つであり、これからも大切にしていきたいと思う。

 現在、徳島にはまだ親父が健在である。私は長男であり、いずれ徳島に帰ろうとも考えている。最後になりますが、我が郷土のますますの発展と同窓諸氏のご活躍をお祈りします。



『メッセージ』

城東30回 兼子 順

 初めまして。簡単な自己紹介、ならびに近況報告をさせていただきます。某私大を中退し、昭和59年に徳島大学医学部医学科に入学して平成2年に無事卒業・医師免許取得しました。同年に東京医科歯科大学第2外科医員となり、お茶の水大学で1年研修した後、武蔵野日赤病院で半年間麻酔科研修、続いて品川区にある東芝病院外科で2年間修行をし、本年1月より静岡の榛原総合病院外科で修行しています。2年後に東京医科歯科大学に戻り臨床及び研究をする予定です。医学に関してご質問・ご相談等ございましたらご連絡ください。少しはお役にたてると思います。

ふるさと徳島の近況

城東16回 吉川 真澄(徳島県庁勤務)

 平成5年徳島において、40年振りに第48回国民体育大会「東四国国体」と四国で初めての第29回全国身体障害者スポーツ大会「躍動のうずしお大会」が県民総参加の中で開催されました。この二つの意義深いスポーツ大会は、大会史上にひときわ輝くスポーツの祭典として、私達に深い感動を与えてくれるとともに、県民が心を一つにした時のエネルギーの大きさを教えてくれました。

 さて、二十一世紀を目前にして、ふるさと徳島では、徳島の周りで進む二つの国家プロジェクトにより、大きく様変わりしようとしています。その一つは、平成6年の秋に開港が予定されている関西国際空港で、もう一つは平成10年の春といわれている明石海峡大橋の開通があげられます。

 本県の将来的状況を見た場合、神戸~鳴門ルートの完成により、本県が本州と陸続きになると同時に四国と近畿圏との交流の結節点になるということから、非常に意義深い事であり、そのためにも今後徳島県がしっかりとした足腰を整えていく必要があります。県では、この二つの国家プロジェクトがもたらす効果を最大限に生かすためのアクションプログラムとして「三〇〇〇日の徳島戦略」が平成2年11月に策定されており、これに沿って事業が着実に進められています。この計画は、明石海峡に結びつける道路整備を中心とした交通ネットワークの整備と足腰の強い産業基盤の確立に向けた産業活性化を基本とし、「ふれあう徳島」「つくる徳島」「ゆきあう徳島」の三つの大きな柱立てのもと、48の事業が採りあげられています。以上徳島県では、平成5年9月新しく圓藤知事を迎え、住む人が愛着と誇りの持てる個性と魅力ある県づくりが進められております。



恩師  先生

糸川さんには土井先生の思い出を、阿部先生にはご本人の近況を書いていただきました。なお阿部先生は昭和37年に初めて城東高校に赴任され、48年まで勤務されていました。

『恩師のはるかな思い出』

徳女40回 糸川 久江

 城東高校の前身、徳島高等女学校は徳島きっての名門校であり、それはそれは誇り高い学校でした。その中でもひときわ存在感のあった先生が数学の土井ナツノ先生。色白でふっくらとした小柄な容姿には母親の雰囲気があり、その反面りんとした信念のためには一歩も譲らない姿勢は見事でした。私達に妻として母としての心構えをしっかりと吹き込んで下さった先生でした。

 病弱だった私は入院で三か月も学校を休んでしまい勉強のおくれを取り戻そうとあせりましたが、からだがついて行けず度々保健室に運ばれる始末でした。その日も保健室のお世話になり、ふと目を覚ますと横で土井先生が優しい目で私を見ていて下さいました。

「ねえ、富永さん、あなたはこのままでは駄目。鉛筆の芯にたとえると、1センチ以上もとがった針のように出ている状態なのよ。これではすぐ折れてしまうわ。芯は3ミリ位出ていれば丁度いいの。人生楽しく無理は決してしないように、自然のままに行きて頂戴。」

 日頃のあの厳しい先生がこんなに優しく力づけて下さると思うと胸がつまり、この言葉「自然のままに」は私の心に深く刻まれた50年経ても行きる指針として決して忘れることはできません。

 そして数多くの卒業生が折にふれ私のように恩師を思いおこし、きょうも又元気に生きて居られるだろうと、精根を傾けて私達の教育にあたって下さった先生方にお礼を申し上げたい気持ちでいっぱいです。



『兼好さんはキザな人』

(前・徳島市立高校校長) 阿部 健

 『花は盛りに、月は隅なきをのみ、見るものかは。雨に対ひて月を恋ひ、垂れこめて春の行くへ知らぬも、なほ、あはれに情け深し』(桜の花は、まっ盛りに咲いているのだけを、月は、かげりもなく照り輝いているのだけを、見て賞美するものであろうか。降っている雨に向かって見えない月を心に慕い、簾を垂れて、その中に身を籠らせて、春の次第にふけてゆくのを知らずに過ごすのも、やっぱり、しみじみした感じがして、情趣が深いものだ)

 皆さんと「徒然草」を勉強したとき、一番よく反応したのは、この部分であったという記憶があります。眼をくりくりさせて、それこそ、議論が沸騰。

 ―さすが風流人だとほめる人。趣味として、いいものがあるという人。屈折したインテリくずれ風だと言う人。中国の詩の亜流だという人。―そんな中で、ある一人の人が、要するに、これは単なるキザだ、と発言したことで、みんなは力が抜けてしまって、もう議論する意欲を失ったことがありました。兼好さんは威厳が無くなり、私もそのあふりをくって授業のしまりがなくなりました。

 つまるところ、古典といい、文学といったって、しょせん人間のおこないですから、このように言いなせば、それはそれで立派な解釈になります。ある意味では洗練された解釈でしょう。これを高校二年生で言うところは、早熟というか、ヤケにませたガキどもの集団であったように思います。

 この時以来、私は「徒然草」の授業のたびにみんなの顔を思い出して、少々の荒っぽい意見が出ても慌てなくなりました。そして自分がキザにならないように、そう見られないように用心するようになりました。皆さんに感謝しています。

 この春、私はretireいたしました。(キザ?)城東の卒業生たちが4月9日(土)に徳島公園の鷲の門で引退慰労の花見の宴に招いてくれています。ちょうどその頃、桜は満開でしょう。兼好さんをまた、意識してしまいそうです。



編集後記

太田支部長から「会報」の話があり、16回卒業生で概略の方針を話し合ったのが秋の同窓会の2次会の席でした。そして、支部長を初め先輩、後輩を含めた拡大編集会議を重ねて責任分担を終えたのが木枯らしの吹く頃でした。皆が来年の事だと思っているうちに年が開け春がきて、気がつくと締めきりを過ぎていました。徳島存在の恩師に、在京の先輩に、関西在住の後輩にと連絡を取りながらやっと原稿を集めました。今号は創刊号となっていまが、試行の段階でプレ創刊号と位置付けたいと思います。今後の担当者の手ですばらしい会報にして頂きたいと願っております。ご協力を頂いた皆様どうも有難うございました。
(竹口)


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